「第二十一講 ヨブの終末」を読んだので、その要点と感想をメモ。
  • 「第四十二章七節以下の研究」。
  • 文学は「悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである」。
  • 七、八節によって、「エホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである」。
  • ヨブは「三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った」。「愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである」。「わが心神の前に深く謙へりくだるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである」。
  • ヨブ記のはじめと終わりだけを読み、悔い改めれば物的幸福を得るとし、物的恩恵に恵まれていないのは悔い改めをしていないからだとするのは早計である。また「災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである」。
  • 「ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍いを忘れて満足歓喜に入ったのではない」。
  • 当初ヨブは「己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると」考えていた。「すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである」。しかしその後のヨブは「何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである」。
  • ヨブの「前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪たえない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである」。
 この講演はヨブ記の要点を簡潔にまとめてあり、かつよく納得できることばかりである。宗教的な話には独断的にすぎたり、飛躍がありすぎると感じることも少なくないのだが、本講演にはそのようなところがなくてすんなり心に響いてくる。要点をしっかり掴んでいるからこそ、このような話ができるのだろう。