*おぞましく感じられること
 『聖なるもの』に神義論および自由に関わる箇所があったのでメモしておきたい。
いかにも非合理的、いやそれどころかおぞましくさえ感じられるのは、怒れる神が罪を罰する手段として罪を犯すにまかせるという発想である。

(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.184)
この絶対存在者だけが現実にあり、すべての被造的存在は、たんに絶対存在者の作用――絶対存在者が被造物を存在せしめる――もしくは仮象にすぎない。被造物が自分独自のものだと思いこんでいるその働きや意思も、神の意志の通過点にすぎない。

(同上、p.193)
 人が罪を犯すのを神が放置した例として、著者は次の例を挙げている。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

(ロマ 1:24)
神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。

(ロマ 1:26)
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

(ロマ 1:28)
 神は絶対、全能だとすれば、神が容認しない限りは人は罪も犯せないし、人が自分は自由のつもりでも結局は神の手のひらの上からは出られないということになるのは当然ではある。理屈ではそうなる。でも感情としては心から納得できるということにはならず、もやもやした気分が残るのは辛いところだ。


*異文化
 ちなみに自分がこの問題に関心を持ったのは、海外小説を読んでいたときに、「善いことも悪いこともすべては神の意思によるのだ」とか、「このような災厄がおきるにまかせた神が憎い」というような考え方が語られていたことがきっかけである。
 また「出エジプト記」に次のようなことが記してあったことも理由である。
主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々をさらせなかった。

(出 10:20)
 ファラオは自分の判断で行動していたのでなく、神によってイスラエルの人々を苦しめていたということらしい。神はファラオが罪を犯すにまかせたどころではなく、罪を犯すようにしたのだと…? 人が神を信じたり、従順になるのは本人の意志によるとばかり考えていたけれども、どうも聖書では必ずしもそういうわけではないらしい。
 神は絶対であるとするとこういう考え方に行きつくのだろうけれども、自分にとってはこれはまったく意表を突かれる思考であるし、驚き感動しないわけにはいかない。異文化に共感し同化するのは難しいのではあるが、その発想を学び理解はしたいものだとは思う。