*経験的方法による判断
 『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。
すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。

(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。


*霊言の真偽についての判断方法
 ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。
霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
 こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。
 霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。


*信仰の義務はない!?
 『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。
私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。

(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。
 これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。