*宗教のはじまり
 巷では、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」という話があるが、中村圭志氏の著作にもそれと似た考え方が書いてあった。
そもそも、一つの思潮が生まれてやがて大きな伝統へと育っていくプロセスのすべてを、その最初にある起源の一点、一人の偉大な開祖の「無から有を生み出す」ような奇跡的なチカラワザの功績に帰すことはできないでしょう。いかなる思想的潮流の立ち上げも、英雄一人の独創性だけで出来るようなものではありません。

(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.36)
思想や習慣に一個の中心があると捉えるのは、あくまでも当事者にとっての「心の要請」であって、「客観的事実」ではありません。歴史上の起源の一点として開祖物語の事実性を想定しなければならない論理的な必然性はないのです。私たちは、当事者の心の問題は公共的な知識にはならない、と肝に命じておく必要があるでしょう。

(同上、p.37)
 これは確かにその通りだ。新しい宗教は、特別な能力を持つ一人の天才的な宗教家が悟りを開いただとか、神の啓示を受けたなどと称してはじめるものだという印象があるが、宗教の歴史を調べれば調べるほどそれはあくまで印象にすぎず、実際は著者の言う通りだと認めざるを得なくなるものだ。
 どんなに革命的で新奇に感じられる宗教、思想であっても、それ以前の歴史文化伝統などの影響を受けて生まれたものばかりで、それらと非連続なものは見当たらない。この意味で、「神が人をつくったのではない。人が神をつくったのだ」というのは冗談のようでありながらも言い得て妙である。


*宗教は人から生まれたものなのか?
 とはいえ、スピリチュアルな方面からは、「新たな思想宗教は、この世を超えた世界の存在を信じない唯物論者には人々の営みの中から生まれたように見えるかも知れないが、実際には人々の霊性を向上させようとする神の計画に基づき地上に展開されているのである。世界宗教の開祖などはそのような使命を担って生まれた存在なのである」云々という反論があるかもしれぬ。
 これはこれでスピリチュアルな世界観の内側ではそれなりに筋が通っているようにも思われる。けれどもこの考え方の背景にあるのは「人の本質は霊であり、輪廻転生をくり返してさまざまな経験を積み、霊性を向上させることを目指している」という霊性進化論であり、これはダーウィンの進化論の影響を受けて生まれた思想であるという見方があるのだ。
 もしこの見方に真実があるなら上の考え方は一人の天才が悟りを得るなり神の啓示を受けるなりして突然に言い始めたのではなくて、先行する思想宗教等の影響下において生まれたものであり、新たな思想宗教は人々の営みの中から生まれるという見方の正しさをますます補強するものでしかなくなるだろう。
 こうしてみるとどうやら現時点においては、宗教というものは、地上の人々の間から生まれたものだとは言えても、地上の人々の手には届かないこの世を超えた世界で生まれたものであるとは言い難いものだと言わざるを得ないように思う。