*ドーキンスの名言
 「リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。


*超越者としての神
 これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。


*旧約の神
 自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。
 ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。


*神様いろいろ
 これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
 とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。


*個人的な体験による神の存在証明
 かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
 自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。


*おまけ
 「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。
 これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。
 唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。
 それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。