*狭き門
 「狭き門」は何回か通読したことがある作品だが、今回読み直してみたら記憶違い及び読み違いが三つほどあったのが分かったのでメモしておきたい。


*記憶の変換?
 まず一つは、自分はアリサは家を出て修道院に入ったとばかり思っていたのだが、それは間違いだったということである。たぶん、アリサの性質からそのように思い込んでしまったのだろう。


*別れの理由
 もう一つは、とある本で、アリサはジェロームに本当の自分を知られて幻滅されるのを怖れて、そうなる前に自ら身を引いたという解釈を読み、長らくそのように思っていたのだが、それは間違いだったということである。
 本作を読んでみるとアリサはとても宗教的な人物として造形されており、そのような考え方をする人物としては描かれていない。たとえば、アリサの日記にはこう書いてある。
おそらく最初のうちこそ、わたくしに対する愛情が、彼を神のほうに導いていたとしても、いまとなっては、その愛情が彼の妨げになっている。

(「狭き門」『世界の文学33』、ジード著、菅野昭正訳、中央公論社、昭和40年、p.245)
わたくしが「自己完成をめざした」のも、ただひとえに彼のためだったような気がする。それなのに、その自己完成にも、彼と離れないかぎり到達できないとは、おお、神さま、それこそ、あなたの教えのなかで、わたくしの魂をもっとも当惑させるものなのです。

(同上、p.244)
 本作ではジェロームがアリサを偶像化していることに触れている箇所があるので、とある本ではその部分を拡大解釈していたのかもしれない。


*宗教による悲劇
 三つ目は本作には悲恋ものというイメージがあったのだけれども、改めて読み直してみると単純な悲恋ものというよりは、宗教にまつわる悲劇というニュアンスが強いことである。
 たとえば、アリサはこんなことを言っている。
「なぜ、あなたはイエスさま以外の案内者を求めようとなさるの?……わたくしたち二人は、それぞれ相手を忘れて神さまにお祈りするときこそ、お互いにいちばん近くにいるはずだとは思わなくて?」

(同上、p.145)
「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるのかしらと思うほど、わたくしは幸福なの……でも、いいこと、わたくしたちは、幸福のために生まれてきたわけじゃなくてよ」

(同上、p.215)
「恋だって、ほかのものといっしょに過ぎ去っていくにちがいないわ」

(同上、p.226)
 ジェロームの「きみを見つけられないくらいなら、僕は天国だってお断りだね」という言葉には、次の聖書の言葉で返答している。
「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ伝第六章三十三節)

(同上、p.145)
 この辺りを読むと、この悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかないだろう。巻末の解説にもこうある。
アリサの悲劇、それは現実的なものいっさいを拒絶するジェロームのアンジェリスムの所産であり、ここでは神への服従が人間的なものことごとくを封殺していく過程が、『背徳者』を裏がえしにしたカタチでたどられていく。

(同上、p.561)
 宗教が自然を捻じ曲げて悲劇を引き起こしたという物語を読んで、宗教に悪感情を持つというのはいささか単純にすぎることではあるが、宗教は場合によっては人の自然な感情に害悪をもたらすこともあるのは事実であろうし、自身が狭き門に迷い込まないためにも、大切な人を守るためにも宗教との関わり方には慎重を期すことが大切なのだと思う。