Scan0009『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著

*魂の存在について
 タイトルにひかれて本書を開いてみた。著者の言葉によれば本書の前半は魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか? などについて、後半は死をどのように理解するかについて記したというが、日本語版では前半部分はほぼ省略されているとのことである。自分は前半のテーマにこそ興味があったのでこれは残念。
 でも、日本語版でも著者の魂についての考えは明らかにされているのは有り難い。著者は「非物質的な魂の存在を立証しようと試みるさまざまな主張」について、次のような結論に行き着いたという。
私の見る限り、それらを念入りに検討することはたしかに価値がある(魂という概念はけっして馬鹿げたものではないし、軽はずみに退けるべきではないから)。とはいえ、そうした主張は魂の存在を信じるのにふさわしい理由を提供することに成功していないのだ。

(『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳、文響社、2018年、p.27)
 理屈で考えれば、これは当然の結論であるように思う。
 

*「私」という存在
 著者は、「私」の存続についても言及している。
けっきょく私が望んでいるのは、将来も存在し続けるということだけではなく、将来の私が、今の私がもっているものととてもよく似た人格を持っているということでもあるからだ。私はその人に、私のようであってもらいたい!

(同上、p.33)
 これも自分には興味あるテーマで、以前あれこれ考えたことがあった。現在の自分は幼児期の自分のことはほとんど忘却しており、その頃の自分とは別人となっている、このことからみると仮に魂は永遠であったとしても、現在の自分と比べれば千年後の自分はまったくの別人となっていることだろう、魂は永遠でも自分は永遠でないなら、そこには一体何の意味があるのだろう? 魂の永遠性など現在の自分にはどうでもいいことになるのではないだろうか? それとも現在の自分と千年後の自分はまったくの別人となっていても、そこにわずかでも連続性が認められればそれで自分は霊と同様に永遠だと満足すべきなのだろうか? などなど。


*トチロー
 また著者は「私」は人格であるなら、将来その人格をアップロードできるようになったら、それも「私」と言えるかどうかについても論じている。これはキャプテンハーロックのアルカディア号と一体となったトチローはトチローと言えるかどうかという問題と通じるところがある。
 個人的な感覚ではオリジナルこそが「私」であって、コピーはコピーでしかないように思えるが、オリジナルは長い期間に変化して行き、ちがった存在になってゆくだろうことを思えば、コピーの方がかえって正しく「私」であるようにも思えてくるからややこしい。
 こういう現実化する可能性の低い仮定の問題はいくら考えても仕方がないことではあるが、「私」とは何かを考えるための思考材料としてはなかなかにおもしろい。


*この先どうなる?
 本書はまだ第1講しか読んでいないのではあるが、この先はさらにいろいろと考えさせられそうで楽しみである。ひさしぶりのアタリ本かもしれぬ。これからちょっとずつ読みすすめるつもり。