*st氏の信仰観
 st氏のツイッターを見たら信仰について書いてあったので、ここに保存し、個人的な感想も書いてみたい。







*st氏とHS信者との共通点
 st氏のツイートを読んで、まず思ったのは幸福の科学(HS)と同じことを言ってるということだった。
 HSではよくこんな事が言われている。
 「大川隆法総裁の言葉に、心を癒やされ、救われた。これは神でなければ説けない教えだ。総裁は神だ」
 「凡人の小さな頭で、総裁の本心が分かるはずもない。にもかかわらず、総裁を疑い、信者を惑わすのは罪だ。それよりは黙って自らの未熟さを反省すべきだ」
 「信仰は尊いことだ。信仰を汚すことは許されないことだ」
 こうしてみると、st氏とHSとでは信仰対象に違いはあるものの、思考回路は同じだと言っていいだろう。以前、st氏の信仰観を支持していたHS信者がいたが、さもありなんである。


*st氏と楽山との相違点(判断)
 次に改めて思ったのは、st氏と私との相違点である。たとえば、この部分だ。
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。
 前の記事でも触れたことではあるが、st氏は、人には神のことは分からず、決めつけてはいけないとしつつ、自分自身はイエスと聖書とを神と神の言葉であると断定しているようだ。
 信仰者というものは、人には神のことは分からないと言いつつも、「これこそ真の神だ」「これが神の言葉だ」「神の御心はこのようなものだ」などと、さも自分は神のことを分かっているかのように断言しがちなものであるが、st氏も例外ではないということなのだろう。
 ちなみに私はと言えば、人には神のことは分からないと考えているので、「これは神でない」とも、「これは神である」とも断言するつもりはない。個人的な感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない。


*st氏と楽山との相違点(聖書)
個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 ここを読むと、st氏の考え方は、人が決めつけた理屈である教義教理は批判すべきものであるが、聖書については批判は許さぬということであるらしい。
 私はどうかといえば、人が決めた理屈…教義教理には聖書も含まれると考えている。その理由は以下のページだ。


*st氏と楽山との相違点(自由)
 とはいえ私は、他人の信仰や行動をコントロールしたいとは思わぬので、他人に向かって「聖書について自分と同じ見方をしないのはけしからん」とは考えない。上の見方に反対して、「聖書は神の霊感によるもので、人によるものではなく、一つも間違いはない。批判することは許されない」と信じたい人は信じればいいし、言いたい人は言えばいい。
 もし私が、神について正しい判断をくだせるなら、他人の信仰について、ああしろこうしろと口出しするかもしれないが、そうではないのだから自分は自分の判断をしつつも、他人には他人の判断があることを尊重しないわけにはいかないのである。
 st氏は自分の意見を述べ、かつ他者もそれに従わなければ承知しないようだが、私は自分の意見を述べはするが、他者の思想や行動までも指図する気はないのである。他者に向かって「信じろ」「信じるな」「意見を言え」「意見を言うな」などと求めるつもりはないのである。また他人からそんな命令をされたところで、自らの自由を放棄する気はないのである。
 前々から分かっていたことだけど、やっぱりこの辺りの考え方は、st氏と私とではまるきり違うようだ。


*st氏と楽山との相違点(信仰)
 上のツイートによると、st氏は信仰については批判すべきであるとしつつ、批判ではなく沈黙すべきであるとして矛盾したことを書いている。
 これはどのような意図で書いているのかは判然としないが、信仰には、人によるものと、神の恵みによるものとがあるという見方があるので、前者については批判すべきだが、後者については批判はできないということは言えば言えるだろう。
 ただ私はこれはあくまで理屈であって、実践はできなかろうと考えている。「この信仰は人によるものである」とする場合も、「この信仰は神の恵みによるものである」とする場合も、結局、どちらの判断も人が行うものである。人には神のことは分からないのだとすれば、「この信仰は神の恵みによるものである」という人の判断は必ずしも正しいとは言えないからである。
 それだから人には「この信仰は人によるものだから批判すべきである」とも、「この信仰は神の恵みによるものだから批判すべきではなく、沈黙すべきである」とも、断言することはできないのだ。せいぜい、どちらの信仰についても、「自分はこのように判断しています」と言えるくらいであって、それを他人に押し付けることは無責任な行為でしかないのだ。
 st氏は自己の信仰についての判断を他人に押し付けることに何らの疑問も感じていないようであるが、私はこのような考え方なので絶対にそんな風にはなりたくないと考えている。





◇◆ 追記 2022.1.7 ◆◇


*曖昧
 記事を読み直して思ったけど、やっぱりこの文章は分かりにくい。
このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 でも次のようにカギ括弧をつけると分かるようになる。私は前者の意味にとって「st氏と楽山との相違点(信仰)」を書いたけど、本人は後者の意味で書いたのかもしれん。

・このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、「教義」「教理」「信仰」という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。

・このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、「教義教理」信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。

 ちなみに後者の意味でも、私の考えは変わらない。人には神のことは分からないとするならば、神が「教義教理」信仰をどう考えているのか、本当のところは人には分かるはずもなく、したがってそれを批判することが神の意志に合致するかどうか判断することはできないと。
 こういう場合、自分なりの意見を述べることは必ずしも否定されないだろうけれども、神の立場から正邪善悪を論じたり、それを相手に強要することはできないだろう。


*同族嫌悪
 ふと思ったけど、st氏が「教義教理」信仰を批判するというのは、同族嫌悪かもしれぬ。
 自己の信条を絶対化して他を裁きまくる自己の教条主義者が、教会の教義を絶対化して他を裁きまくる教会の教条主義者を嫌い、非難するという形だ。
 この手のことはHSでもあるが、キリスト教でも同じなのだろう。