*つづき
 前記事のつづきです。
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自由さん
実は、自分は、意見が一致しなくても、あまり気にならない方だったりします。
自分は、甲と考える。
Bさんは、乙と考える。
Cさんは、丙と考える。
という具合に、他者の意見を知り、その差異が分かると、ひとまず満足。
他者の意見を、誤解することなく、なるだけ正確に理解できて、「自分はこう考えてるけど、あの人はそうではない考えを持ってるんだな」ということで一区切りです。
むしろ、一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます。

それこそ、シャロームの人それぞれ、ということですが、
それでよいのは、芸術とか文学など、好みの問題で済まされる問題のときです。
それと同じように信仰を語ることは決して出来ません。
2018/12/12(水) 午後 10:27st5402jp



シャロームは、社交と詭弁によって、人にすり寄り、騙してきた害悪なのです。
この人をゆるしてはいけません。本気なのかと疑われるでしょう。

記事にします。

シャロームは、自分の都合の良いように曲解した聖句を引用して、さらに偽善ぶりを発揮するでしょう。偽善者が、いかに真実を歪曲するか、という見本を重ねることになります。
2018/12/12(水) 午後 10:27st5402jp



シャローム
わたしたちの日常生活における人と人との関係、ことがらにおいては私も自由さんの考え方に同感です。しかし、キリスト教という福音についての信仰観については神のみ心を歪曲してしまうような理解に陥らないように気を付けたいですね。

シャロームの特徴ですが、悔い改めをしたのか、したならどこに表れているのか、私がカルトだと言いたいなら根拠はどこにあるのか、シャロームがカルトでない証拠はどこにあるのか、など、私の言ったことを全く受けないで、一方的に書いてきます。一つの特徴であるところの、ですね口調で書いて、すり込んできます。これが、カルト信仰者と偽善者の特徴の一つです。
2018/12/12(水) 午後 10:42st5402jp



キリスト教系の異端とされている統一教会には原理講論が聖書理解の基本的考えですし、エホバの証人には新世界訳という自分の教理に合わせた訳の聖書があり、教理理解の本があります。モルモン教にはモルモン経というモルモン教によって作られた経典があります。
異端の教理のすべてが間違いであることではなく、ほんの一部が聖書のみ、信仰のみではなく、必ず+αが混入され、教祖の神格性や権威とづけの根拠とする教理によってカルト化されているようです。

そして、直接関係のないカルト話、ではなく、このコメントからは、シャロームの特徴も表れています。
2018/12/12(水) 午後 10:52st5402jp



申し上げますが、カルトは、キリスト教+αではありません。本質が正反対なのです。中心に神ではなく、自分の解釈を置いています。そして、それは、きわめて、自己あるいはカルト解釈絶対から自己あるいは集団中心の教条へと変わっています。ここは、シャロームの悔い改めることのない信条と酷似しています。

キリスト者は、自己または教えられたことを中心に置くのではなく、悔い改めによる修正可能をもって、自らを神の前に晒し、赦しと癒しと救いと導きを求めてゆくのです。

修正可能性が全く見られないのがシャロームです。だから成長がなく崩壊だけが露わになって進行します。シャロームのカルト話は、シャロームに向けられるべきです。
2018/12/12(水) 午後 10:52st5402jp



私は、私が感動するような解釈や信仰の話に出会ったら、私の言説を改めるでしょう。

シャロームから、感動できる話を聞いたことは一度もありません。
2018/12/12(水) 午後 10:54st5402jp



>st さん
>それこそ、シャロームの人それぞれ、ということですが、
それでよいのは、芸術とか文学など、好みの問題で済まされる問題のときです。
それと同じように信仰を語ることは決して出来ません。

>shalom さん
>キリスト教という福音についての信仰観については神のみ心を歪曲してしまうような理解に陥らないように気を付けたいですね。

キリスト教の信仰においては、人それぞれでは済まされず、その根本においては一致する必要ありということでしょうか。
stさんとshalomさんは、その具体的な中身については意見の合わないところもあるようですが、信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。
2018/12/13(木) 午前 7:10[ 楽山 (自由) ]



自分の考えはどうかといえば、信仰、信条、主義などこそ、人それぞれにならざるをえないのが現実ではないかという気はします。

どのような信仰、信条、主義を持つかは、生まれつきの性質、生まれ育った環境などによる影響は大きいだろうし、他者による批判や自分の意志によって、それらを変えられるかといえば、それは難しそうです。
2018/12/13(木) 午前 7:19[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん おはようございます。

「自分の考えはどうかといえば、信仰、信条、主義などこそ、人それぞれにならざるをえないのが現実ではないかという気はします。」

キリスト教信仰は人の言葉や人の論理の上に建てられるものではありません。なぜなら人の言葉や論理は有限で、相対的なものだからです。
キリスト信仰は永遠普遍にして不変の生ける神ご自身の啓示と記録された聖書の御言葉、またイエスさまご自身が神の生ける言葉なのです。全聖書は聖霊が多くの人を通して、人の言葉によって記録された神の啓示の証しの言葉です。イエスさまがご自分の苦難と死を前にして助け主である聖霊が注がれることを恐れ戸惑う弟子たちに繰り返し深く語られたのはそのためだったのです。

コリント人へ第一の手紙1章から3章まで読んでみてください。またローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙などを読んでみてください。
2018/12/13(木) 午前 10:17[ shalom ]



聖書を除外し、離れて信仰、少なくともキリスト信仰について議論、批判し合うことは、虚しい不毛の論争であり、多くの異端裁判という痛ましい歴史があります。
ですから人の論理や心情による論争、批判、裁き、誹謗、中傷をどんなに正当化してもキリストに対する信仰に導かれ、イエスさまとの出会いにも、交わりに導き入れられることはありません。
2018/12/13(木) 午前 10:20[ shalom ]



「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」と聖書(ロマ10:17)は証言しています。
聖書の言葉に人の相対的な論理を+αしたものが異端であり、カルトは巧みに人の納得と共感に訴え、カルト、異端によって人の心と、生き方がマインドコントロールされ自由、さらに命まで奪われる恐るべき罠なのです。
しかし、異端、カルトの罠には人の心をとらえる魅力があります。アダムとエバが神が食べてはならい、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木に近づき、その実を見るとその魅力にひかれたのです。そこにへびであるサタンの誘惑にとらえられるチャンスを与えてしまったのです。
昔も今もそれは変わることがありません。
2018/12/13(木) 午前 10:20[ shalom ]



確かな平安、正しい生き方を求め、深く、ひそかに心の飢え渇きを感じておられる、まじめな人、善意の人、素直な人ほどカルトの虜になっておられることが多いと感じます。
自由さんはその痛みの経験がありますから、信じることに人の自由がなければならないと感じておられるのだと思います。

「真理はあなたがたを自由にする」とは聖書の言葉ですが、人による真理ではなく、神の真理であられるイエス。キリストご自身なのです。
「わたしは道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない」と言われたのはイエスさまご自身なのです。嘘であれば、イエスさまは最悪のカルトであり、最悪の詐欺師ですね。
是非コリント人への第一の15章を読んでみてください。

shalom!
2018/12/13(木) 午前 10:24[ shalom ]



> 自由さん
「stさんとshalomさんは、その具体的な中身については意見の合わないところもあるようですが、信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。」

「信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。」

いいえ。同じではありません。
信仰という言葉に含まれていることには、
信仰の土台として神が据えられた永遠普遍、不変の不動の土台と、人による信仰の中身?あり方として、人がその土台を基礎としてどのような生き方をするかという二つのことにによって成り立っているのです。
建物に基礎と建造物があるのと似ています。
基礎は基礎は堅くて動かないものであり、建造物は人の思い、願い、好みによって様々な形、様々な建材を使って建てることと似ています。
2018/12/13(木) 午後 0:02[ shalom ]



信仰の土台は神が据えられた永遠不変、不変。信仰の在り方、生き方は人がそれぞれ与えられた自由意思に従って、神が据えられた土台を土台として、神のみことばと聖霊の導きに従い、どのような生き方をするかは自由ということです。有限で相対的な不確かな神と神のみことばを信じないで肉に従って生きることもできます。

コリント第一 3章を読んでみてください。

信仰について自分の、人の考えによることば、論理のみで理解しようとしないでください。かえってその限界性と相対性のために混乱させらせら、人による偶像信仰に迷い込みます。神による信仰の土台を受け容れることも、信仰による歩み、生き方も、神は人の自由意思による選びにゆだねてくださっているのです。

shalom!
2018/12/13(木) 午後 0:03[ shalom ]