*後期
 「宗教・思想を、すぐに相対化してしまうのは悪い癖なのだろうか?」のコメント欄のコピペです。
 例のごとく、shalom氏と楽山の会話に、st氏が割り込み、ケチを付けてくるというパターンになっています。
 会話内容については、他所での話も混じっているようで、若干、話が飛んでいるように思える箇所もあります。
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1. shalom2019年02月01日 21:11
自由さん こんばんは
凧あげをしている風景は正月には偶に見かけますが、ほとんど見かけません。凧って高く上がると爽快ですよね。
凧をつくったこともありますが、なかなか上下、左右のバランスをとるのがむずかしいですね。以前は永い尻尾もつけたりしましたが、今はあまりそんな凧は観ません。凧本体が完璧にできても、凧あげができるわけでもありません。もちろん風が吹いていることが大事ですが、風だけでは上がりません。最後の凧を上げるためにはひもが必要ですね。紐が切れたりすると凧は自由に高く上がることができるかと思えば、かえって落ちてしまいます。
私たちも年を取るとあちこちからだの調子が悪くなりますが、それでも人の身体って本当に見事にできています。丼兄医学や化学が進歩しても生きた人間をつくることなんかできないでしょうね。



2. shalom2019年02月01日 21:12
たとえ、知性や理性や感情があるロボットができたとしても。それに太陽系だけ考えても、太陽を中心に8つの天体が秩序よく自転したり、公転したりしています。そのような天体が2000億あると言われています。その広大さは人の理解をはるかに超えています。人知では到底計り知れない知性や創造力がなければ花びら一片すらできないと感じます。人の営みはそれらの存在を前提に成り立っていますが、それらのものの存在に人は指一本のわざも関わってはいません。
人の知性は海岸の一粒の砂のようなものかもしれません。
科学が進歩していろんな便利なものができていますが、それらのものは動物や植物から教えられ、つくられているようです。カメラだって人の目以上のものではないでしょうね。建物でも、設計し、必要な資材があってできるのであって、人の知性によって建てられるます。だれかがさいころを投げるように資材を投げ出すと家になったということは決してありません。
無から有を創造する全能者の存在の存在なしにできるとはとても考えられません。



3. shalom2019年02月01日 21:17
人は人格的な存在で、知性、理性ある存在ですが、永遠を思う存在でもありますから、きっと創造者には人格性もあり、知性も理性もあり、永遠の存在者でなければ人を創造することは出来ません。人が人として生きるには凧が糸でつながれていてはじめて大空高く舞い上がることができるように生ける神との関係と交わりという紐でつながれていなければ、きっとどこに飛んでいくかわからず、地に落ちてしまうでしょう。
被造物のすべてがそのような創造者を証ししていると感動させられます。



4. shalom2019年02月01日 21:19
旧約・詩篇19篇はそのような神の栄光を誉め歌っています。
旧約・詩篇
19:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
19:2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
19:3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
19:4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
19:6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
以下省略
shalom!
誤字脱字があるかもです。ご容赦のほどを。



5. 楽山 (自由)2019年02月02日 08:23
おはようございます。
凧と言えば、私の子供時代は、ゲイラカイトでした。三角の形をしたやつ。
竹と紙の日本風の凧は、学校でつくって上げました。



6. 楽山 (自由)2019年02月02日 08:24
>2019/2/1(金) 午後 9:12
>2019/2/1(金) 午後 9:17
これについては、大川隆法とその信者も似たことを言ってますね。
宇宙、自然などを見ると、偶然にできたとは思えない、設計者がいるだろう
建築資材を放置しておいたら、高層ビルができたなんてことはないだろう
目のような複雑な器官が自然にできるわけもない
宗教がなければ善悪は定まらず、正しく生きられない。糸の切れた凧のようになる?
無から有になるにはそこに創造主の意思があったのだろう
というような考え方は、大川本とか、信者の書き込みでも見かける。



7. 楽山 (自由)2019年02月02日 08:28
ちなみに、自分も前はそういう考え方に影響を受けてましたが、最近はドーキンス本に感化されてしまってます。
ただそれでも上のような感覚はまだたくさんあるんですよね。
宇宙、自然などから、設計者の存在を連想したり、その目的、意図を感じたりしてしまう。理屈と証拠は、神は妄想であることを示していても、神を感じ、信じないではいられなかったりする。また道徳、良心に反することを思ったり、したりすれば、かなりのストレスになる。
この辺りの心の動きは、自分のことながら、ほんと不思議だなあと思います。



8. 楽山 (自由)2019年02月02日 08:29
なぜ人は、宇宙、自然などから神を連想するのか
なぜ人は、道徳、良心をもっているのか
この辺りは、宗教的にはわりとすぐ回答できそうだけども、進化論的な切り口から論じた本を読むと、目からうろこが落ちた気分になれて面白いです。



9. shalom2019年02月02日 12:36
> 自由さん おはようございます
すべての論理は相対的ですから、創造論と進化論を神の存在を肯定する仮説とすることも無神論の仮説にすることも可能なのではないでしょうか。
ですからカルトは論理の絶対化の前に必ず人、教祖の絶対化があるのではないでしょうか。もちろん人、教祖の絶対化の前に、それを信じる人の弱さである確かさのない不安、恐れ、慾、また罪責感、挫折感、無力感などの盲点を巧みについてその論理、教えが問題解決になるという心理的操作を繰り返すことによって、その論理、教えをする人、教祖の絶対化信仰へと誘導する過程があると思います。このようにして、人、教祖に対する絶対化信仰に囚われていくように思われます。私たちは程度の差こそあれ、そのような生き方をしているのではないでしょうか。



10. shalom2019年02月02日 12:37
キリスト教信仰においても同じようなことがあると思います。
聖書の御益的論理、記事、罪意識や贖罪意識の救済願望、倫理的教えと批判基準・・・などなど、生活や生きていくうえで様々な葛藤をだれでも体験しながら生きていますので、そのような願望や葛藤の解決を期待し、安心と将来に対する希望や慰めを与えられると信じて、信仰に導きいれられているというのが、人がキリスト教信仰、あるいは宗教に関心をもち、誘導されていくのではないかと思います。
キリスト教信仰に導かれた人の、多くがそのような体験によって信仰している場合が多いと思います。日本におけるクリスチャンの卒業年齢は三年と言われています。洗礼などを受けて信仰に入ったものの、多くの人が三年で信仰、教会を卒業し去って行くというのです。それはイエスに選ばれた弟子達でもそうでした。弟子たちがそうであったように、そのような自己目的によって導き入れられた信仰はイエスの十字架の死とともに覆されてしまうのです。そうでない場合でも自分の論理に基づく信仰をつづける人、隠れキリシタンになる人もあります。



11. shalom2019年02月02日 12:38
ですから、自分の期待と異なる結果によっては弟子たちがそうであったように、みなちりちりバラバラに散らされてしまうのです。そこからイエスの十字架の死で人の自己目的な信仰はピリオドを打たれ、そこから始まる信仰があるのです。そのためにイエスさまは弟子たちを十字架の死へと導かれたのです。死によって人のありとあらゆる相対的な論理はくつがえされ、不毛な論理と化するのです。
キリスト教信仰は決して先に創造論があるのはありません。
イエス・キリストの死とよみがえりによって、失われた神との関係という的外れ状態に生きている私たちを再び神との関係と交わりという本来の姿を回復し、人が神のかたちとしての本来の姿にふさわしく生きることができるようにされたのです。このことを神の国の福音というのです。



12. shalom2019年02月02日 12:38
なくてならぬものは多くはない。ただ一つだけであると言われたイエスさまの言葉、イエスさまご自身に対する信仰から始まるのです。そのプロセスに十字架の死があるのです。イエスさまと私たちの死があり、よみがえりの世界、いのちの世界、神の国に生かされる者とされるのです。
新約・一コリント
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。



13. shalom2019年02月02日 12:39
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
shalom !



14. shalom2019年02月02日 13:11
自由さん 面白い話ですね。
『マリア様がみてる』には、「片手だけつないで」という話があった。その内容は、恋人を愛しすぎて二人だけの世界に没入してしまい、他者からの注意には耳を貸さなくなった結果、恋人も自分も傷つけてしまった少女が、二度と同じ過ちを繰り返さないために、新しい出会いのときは、相手とは適切な距離をとり、片手は他の人々とのつながりを失わないように開けておこうというもの。
よく別れ話が原因で痛ましい事件が起こっていますね。
小学生や中学生、あるいは高校生の間でも異性との交際に分かれたという言葉が使われるようで、呆れますね。大人の悪しきマネでしょうか。



15. shalom2019年02月02日 13:12
まさかその続きで、結婚式で、もう一方の手が他の異性に繋がれているとは思われませんが、×2、×3もめずらしくありませんので、こういう関係の在り方も相対化のなせるわざかもしれませんね。最近は何でも自由で、憲法違反だと訴えるご時世ですね。
結婚式はよくキリスト教式でなされる場合が多いのですが、
結婚する二人の仲を取り持つのはイエスさまであるとしての結婚なのですね。イエスさまをそっちのけにするとたちまち問題が起こり乗り越えるのがむずかしいようです。
私たちの50年は何度も困難はありましたが、まさにイエスさまが仲を取り持ってくださったから続いたのは確かですね。(笑)



16. shalom2019年02月02日 14:54
> 自由さん
「なぜ人は、宇宙、自然などから神を連想するのか
なぜ人は、道徳、良心をもっているのか
この辺りは、宗教的にはわりとすぐ回答できそうだけども、進化論的な切り口から論じた本を読むと、目からうろこが落ちた気分になれて面白いです。」
きっと宗教のもちやすい独善性、独断性を批判し、相対化するには面白いでしょうし、有益でしょうね。



17. 楽山 (自由)2019年02月02日 15:17
これは失敗。誤解を招くかき方だったようで失礼しました。「マリア様がみてる」は、異性愛ではなくて、いわゆる百合というやつですね。
物語の舞台は、カトリック系の女学園で、その生徒たちの織り成すドラマが綴られているというもの。
特殊な設定としては、先輩から後輩にロザリオを渡すことで義理の姉妹(スール)となるとか、生徒会の三人は紅薔薇様、白薔薇様、黄薔薇様と呼ばれ、その妹たちは、つぼみと呼ばれるとか、いろいろあります。
ジャンル的には、百合に分類されるようだけども、耽美主義的なものというよりは、人を理解し、愛し、信じるとはどういうことかをしんみり考えさせるものになってます。道徳的にも筋が通ってるので読後感もいい。心が疲れたときに、ファンタジー童話として読むと、ちょっと元気になれます。



18. shalom2019年02月02日 17:01
> 自由さん
そうでしたか。
カトリックと言えば渡辺和子さんの「置かれたところで咲きなさい」だったかな?ベストセラーにもなったと思います。
渡辺さんは幼い時、五一五事件でお父さんを目の前で銃殺された経験をされた人です。現在高校入試真っ只中の中三の孫娘にプレゼントし読んでもらいました。



19. st5402jp2019年02月02日 19:37
このように、シャロームは、相手が受け入れていると判断すると、どんどん、積極的に、吹き込んできます。つまり、普通に聞いていると、すり込まれてゆきます。最初から、批判的な視点を持たないと、シャロームに対しては、とても危険だということです。



20. st5402jp2019年02月02日 19:41
それにしても、彼の今までのことも知らず、よく吟味もしないで、ヨシュア以上の洗脳のプロに、目からうろこが落ちた気分になれて面白いです、などと、よく言えます。
今夜、記事にします。