*後期
 以下は、「仏陀のことは、仏陀でなければ分からない? (『大学・中庸』) 」のコメントコピペです。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


楽山さん こんにちは

「自分にも、立派な人をみるとすぐに神だ何だと崇拝してしまう癖がある」

生きていようと死んだ後であろうと、どんな人であろうと人を神(仏)だと崇拝するなんて、私にはとてもわかりませんね。倒錯としか思えません。仏陀はそのことを知っていた人だったと思います。
2019/2/11(月) 午後 0:33[ shalom ]



shalomさん、こんにちは。

その部分は、我ながら大袈裟なもの言いだったかなとも思いますが、自分にはやはりそういう傾向はあるようです。人に限らず、立派な大木なども、畏れ、敬わずにはいられない方です。
2019/2/11(月) 午後 4:54[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん こんばんは

「我ながら大袈裟なもの言いだったかなとも思いますが、自分にはやはりそういう傾向はある」

結構あちこちで書いておられるようですから、かなり自覚されていることだと思いますね。
日本教徒というのも日本の自然やながい歴史の中で育まれたことですから、あまり自覚していることではないけれど、根深い日本人のアイデンティティとなっていることではないかと思います。いい悪いではなく、日本人の自然な魂とでも言える感性になっていると思います。でも異なる物事にふれる時、そうした心の感受性によって、無意識、無自覚的に受容と排除という選別がされ、同化、順応が求められ、異質なものを排除してしまう強い傾向となっていることも否定できないと思います。
2019/2/11(月) 午後 8:29[ shalom ]



交通も便利となり、情報の伝達も早くなり、世界も狭くなり、グローバリズムが急速に進んでいく現在、日本一国のみならず、ひとりの人間として生きていくことも難しくなり、物事すべての分野で閉塞状態が人も社会にも覆いかぶさっているのではないでしょうか。従来の受容と排除の論理による同化や順応ではとても乗り越えられない困難な時代になっていると感じます。
旧来の陋習(ロウシュウ)を破り天地の公道に基づくべしとは明治天皇が明治維新以後の日本を導く為に五か条のご誓文として掲げられた一文ですが、それに匹敵するような激動の時代だと思います。
破るべきものを破ることが大事ですが、それが日本教徒的な陋習といっては言い過ぎでしょうか。現実には日本の政治は逆行していて、問題を深めていて、それを止めることができないようです。それは決して欧米的になるということを意味しません。なぜなら欧米キリスト教諸国も同じ閉塞状態に直面しているのですから、それは全人類的課題となっていると思いますが、いかがでしょうか。ではまた
2019/2/11(月) 午後 8:33[ shalom ]



(私)
いちばん、分からないことを分かったふりをしているのが、シャロームです。
そのシャロームを受け容れて、まともに話しているつもりなのが、安楽山です。

(シャローム)
楽山さん こんにちは
「自分にも、立派な人をみるとすぐに神だ何だと崇拝してしまう癖がある」
生きていようと死んだ後であろうと、どんな人であろうと人を神(仏)だと崇拝するなんて、私にはとてもわかりませんね。倒錯としか思えません。仏陀はそのことを知っていた人だったと思います。
2019/2/11(月) 午後 0:33 [ shalom ] 

(私)
知りもしないのに仏陀のことを言っていますが、自分の解釈を訂正不能にして崇拝しているのが、シャロームであります。人の言うことなど、微塵も受け取らずに、また、今日も、ペテン師の生業を続けています。
2019/2/11(月) 午後 11:33st5402jp



神秘に惹かれる傾向は、誰でもあることですが、信仰においては、人間にとって、手に負えることと、手に負えないことを明確に分ける必要があります。でないと、シャロームのように、人間離れの讃美言葉だけが信仰になってしまい、節操や深謀遠慮が全くできない人に、それだけでなく、目の前の物事の是非ですら分からない人になります。
2019/2/11(月) 午後 11:34st5402jp



日本教徒というのも日本の自然やながい歴史の中で育まれたことですから、あまり自覚していることではないけれど、根深い日本人のアイデンティティとなっていることではないかと思います。いい悪いではなく、日本人の自然な魂とでも言える感性になっていると思います。でも異なる物事にふれる時、そうした心の感受性によって、無意識、無自覚的に受容と排除という選別がされ、同化、順応が求められ、異質なものを排除してしまう強い傾向となっていることも否定できないと思います。
2019/2/11(月) 午後 8:29 [ shalom ] 



(私)
また、ここで、話を、人間から、どこかで読んだことの受け売りで日本のアイデンティティへと誇大化して、日本人の自然な魂と言いながら、ボロクソ節で、いい悪いではなく、受容と排除と言い、言ったことで満悦し、ゴチャゴチャにして、区別や基準も示さずに、得意げな豪語を始めています。それは、感受性ではなく、妄想です。
2019/2/11(月) 午後 11:34st5402jp



(シャローム)
交通も便利となり、情報の伝達も早くなり、世界も狭くなり、グローバリズムが急速に進んでいく現在、日本一国のみならず、ひとりの人間として生きていくことも難しくなり、物事すべての分野で閉塞状態が人も社会にも覆いかぶさっているのではないでしょうか。従来の受容と排除の論理による同化や順応ではとても乗り越えられない困難な時代になっていると感じます。

(私)
これが、シャロームのボロクソ節です。このとき有頂天で、全く自分のことを考えていないので、他者としての日本を罵っているのです。この豪語が受け入れられると、シャロームは、とても気持ちがいいのです。是非も真偽も問われない、こんにゃくのような、このサイトで、それが満たされているのでしょう。
2019/2/11(月) 午後 11:35st5402jp



(シャローム)
旧来の陋習(ロウシュウ)を破り天地の公道に基づくべしとは明治天皇が明治維新以後の日本を導く為に五か条のご誓文として掲げられた一文ですが、それに匹敵するような激動の時代だと思います。
破るべきものを破ることが大事ですが、それが日本教徒的な陋習といっては言い過ぎでしょうか。

(私)
言い過ぎではなく、何も言っていないのと同じなのです。陋習とは、悪い習慣のことらしいですが、説明もせずに、ご過剰のご誓文を引用しながら、導いたのは、激動の時代、ということだけです。自己顕示欲だけで書いてくるシャロームの言説とは、このような、受け売りと、言葉尻という、考察抜きの、無駄を強いるものです。聞くほうは、太鼓持ちになって、ご機嫌取りをすることになります。シャロームのインテリ気取りからは、疲労しか生まれません。
2019/2/11(月) 午後 11:35st5402jp



(シャローム)
現実には日本の政治は逆行していて、問題を深めていて、それを止めることができないようです。それは決して欧米的になるということを意味しません。なぜなら欧米キリスト教諸国も同じ閉塞状態に直面しているのですから、それは全人類的課題となっていると思いますが、いかがでしょうか。ではまた
2019/2/11(月) 午後 8:33 [ shalom ] 返信する

(私)
日本も、欧米も、駄目だと言っています。自分は正しいという無根拠の決めつけです。こういうことをしばしば言ってくるので、はっきり断らないで付き合い続けると、ついには人生を無駄にするでしょう。シャロームの底の浅さを見抜けない人が犠牲になるパターンです。
2019/2/11(月) 午後 11:36st5402jp



ご過剰(誤)→五カ条(正)

私はインテリではありません。だから、信仰の話も、神学というレベルではなく、人間の因果や、人間の必要から考えてゆきます。シャロームは、一挙に、世界と超常を語らないと満足できないために、身近な必要である人間性を腐らせてきました。
2019/2/11(月) 午後 11:40st5402jp



昨夜は、「「日本人」という病」を少しだけ読んでみました。はじめの講演録だけ。
歴史認識とか、どうも自分とは合わないみたいですけど、一応最後まで読んでみるつもり。
2019/2/12(火) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]



ついでに他の本のことも書くと、
遠藤周作の「おバカさん」はまずまず面白かったので、続けて、『わたしが・棄てた・女』を読んだら大当たり。
正直な感想を書くと、登場人物の森田ミツは、純朴で、やさしくて、他者のために何かしないではいられない人だったので、女神様のようだと思ってしまった。
2019/2/12(火) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]



巷では、人格円満で、よくできた人のことを、神様みたいだと表現することがあるけど、どうも自分にもそういう感覚はあるようだ。
2019/2/12(火) 午前 7:06[ 楽山 (自由) ]



そういえば、HSを退会して、カトリックになった方は、神社には神様はいない、何もいないというようなことを言ってた。
自分にはどうもそういう感覚は分からなかった。神社には神様がおられるという感じがするので…。特に夜の神社には、なにかいるという感じは強くなる。
2019/2/12(火) 午前 7:20[ 楽山 (自由) ]



こういうのは、後天的な教育やら、進化の過程で得た機能が誤作動を起こしてるだけかもしれません。
ただそういう感覚があるのは事実なので、さほどの差支えがないかぎりは、とりあえずはそれに従ってる次第です。
2019/2/12(火) 午前 7:21[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん おはようございます

「神社には神様はいない、何もいないというようなことを言ってた。」

HSを退会された人がはキリスト教の神の新たな体験をされると、そういうこともありかなとは思います。
もしHSに対する批判としてなら批判している対象と内実が変わらない、同じであるとも言えるようですね。
イエスは“”裁いてはいけない。裁くあなたも裁いている人と同じことをしていると言われました。同じことをしている!というの
はショックですが、まさか!?ですね。認めたくはありませんが、本当のようです。善悪の木の実を食べるとその気づき、自覚、病識がマヒしやすいのは確かですね。
2019/2/12(火) 午前 9:28[ shalom ]



「神社には神様がおられるという感じがするので…。特に夜の神社には、なにかいるという感じは強くなる」

その感じは私にもわかりますよ。特に夜の神社に“何かいる”という気配、感じと神様がおられることと同じだと思うと気味が悪いですね。(笑)
昔、ドイツで数人の外国人のブラザーと深い森を歩いていた時、日本の森とはどんなに違うかと聞かれたことを思い出しました。
そこは大きな木立があり、広くさわやかな感じでした。日本の森で良く感じることをどう答えていいのかわからないでいると、wildかと言われましたが、違うとは言ったものの、日本の森や自然の中で感じることを英語力不足でどう表現していいか答えに戸惑いましたが、やはり違う雰囲気でした。その時、私は日本人だなと思いました。私は結構繰り返して体験することでしたから、覚えていますが、外国から帰る時、飛行機が日本に近づくと感じるある種のふあっとおおってくるような感じ、気配があり、日本に帰ってきたなとよく感じさせられましたね。
2019/2/12(火) 午前 9:29[ shalom ]



> 楽山 (自由)さん
「そういう感覚があるのは事実なので、さほどの差支えがないかぎりは、とりあえずはそれに従ってる次第です。」

たくさんの日本人が外国に留学、海外駐在の仕事で外国に行き、
クリスチャンになって帰って来る人がかなりおられます。
でも日本に帰ってこられるとやはり続かない人もたくさんおられます。続かない人の感じはやはり、重い、束縛感、空気感のようですね。
いま我が家で黒にんにくをつくっているのですが、孫娘が家に入って来るなり、あ、にんにくのにおいというのです。
わからないように、少し離れた倉庫のなかで炊飯器の保温状態で作っているのですが、ニンニクの強いにおいだからです。一泊してニンニクのにおいに染まって帰って行きました。(笑)
2019/2/12(火) 午前 9:54[ shalom ]



なんか気を遣っていただいてるようですね。ありがとうございます。

「日本の森」で思い出したけど、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」はいいですね。
墓地のことを青山というと知ってからは、ますますこの句が好きになりました。

>「青山」は、死んで骨を埋める地・墓地のこと。
http://kotowaza-allguide.com/ni/ningenitarutokoroseizan.html
2019/2/12(火) 午後 8:19[ 楽山 (自由) ]



ついでに書くと、夏になると、いつも思い出すのが、この俳句。
夏の暑さはうんざりするけど、今の時期はその暑さが恋しく、懐かしいという…(笑)。

> へそが汗ためてゐる 種田山頭火 草木塔
https://fudemaka57.exblog.jp/26861710/
2019/2/12(火) 午後 8:20[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん こんばんは

河合隼雄さんは日本におけるユング派心理学の第一人者で、日本神話の研究もされ、日本人と社会に対する良き理解者ですね。とても分かりやすい本が多いですね。何か参考になることがあればいいですね。遠藤周作さんのおばかさんはずいぶん前に読みましたががっさんの人物像の印象は親しみ深く残っていますが、内容そのものはほとんど記憶していません。おばかさんのがっさんは夜のガリラヤ湖の波の上を歩いて船に乗って風と波のために向こう岸になかなかつけなくて漕ぎ悩んでいる弟子たちに近づかれるイエスさまの姿をやさしく、ユーモラスに描いているのでしょうか?どのように感じられましたか?
聖書を熱心に読んだ著者は太宰や芥川、有島など多いようですが、クリスチャン作家は多くないようですね。その一人の椎名麟三の経歴と郵便局の窓口でイエスさまに出会ったことを書いた美しい女など心に残っていますが、楽山さんの読書量のすごさにおどろき、改めて私の読んだ本がほんとうに少ないなと思います。
でも何回読んでも読み飽きない、読みつくせない本は聖書かな、そんな本に出合えて幸せだとは思います。感謝!
2019/2/12(火) 午後 9:21[ shalom ]



(私)
シャロームは、ずっと前から、批判に対して、婉曲的に、裁くな、という聖句を引用してきました。しかし、コメントをことごとく削除して、自分に都合のわることを自分で裁いてきたのはシャロームであります。この聖句の悪用は、シャロームの偽善の常套句です。
(私)
善悪の木の実を食べると、気づきや自覚や病識が麻痺するのでしょうか。では、私たち信仰者が、キリストの愛に気づき、信仰に至るのは、そして、悪しきものを良きものとを分けて、福音を与えられ、また、伝えようとするのは、麻痺の結実でしょうか。断じて違います。シャロームの偽キリストかつ反キリスト妄想伝道の文言に騙されないでください。
2019/2/13(水) 午前 0:40st5402jp



(安楽山からの引用)
「神社には神様がおられるという感じがするので…。特に夜の神社には、なにかいるという感じは強くなる」
(シャローム)
その感じは私にもわかりますよ。特に夜の神社に“何かいる”という気配、感じと神様がおられることと同じだと思うと気味が悪いですね。(笑)

(私)
この「(笑い)」の気持ち悪さが分かるでしょうか。インチキ占い師やカルトが勧誘するときの騙し文句に似ていないでしょうか。
2019/2/13(水) 午前 0:40st5402jp



(私)
なごみの会話をしているように見えますが、安楽山も、「(笑)」を返しています。HSというカルトから脱会したと言っていた安楽山ですが、ボロクソ節も胡散臭さも見抜けないのでしょうか。シャロームがインチキ占い師かカルトの勧誘なら、安楽山はそれに騙されてゆく人の典型のような、受け答えに見えてしまいます。
(私)
このようにして、シャロームは、なごみから、親しみへ、そして、ゆくゆくは、罪を認めず悔い改めない、という、反キリストとしか思えない自説の妄想へと、今まで、多くの人に、悔い改めない怨念と奇跡信仰を掏り込んできたのでしょうか。恐ろしい人です。
(私)
いたるところに青山あり、という言葉があります。青山は墳墓の地、つまり、死に場所のことでしょう。しかしながら、自分の青山を、インチキカルトの偽善者のほしいままに決められたくはないです。


キリスト者は、キリストに愛されて信仰者となり、キリストの同伴を得て、神の導きによって運ばれ、罪を悔い改める日々を過ごし、神の定めた時と所で、地上の人生の終焉を迎えます。
2019/2/13(水) 午前 0:41st5402jp



記事にしています。
2019/2/13(水) 午前 0:41st5402jp