*つづき
 前記事のつづきです。 
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shalomさん、おはようございます。

うーん、河合隼雄は自分にはいまいち合わないかなという感じはしています。でも太陽を拝むからと言って、太陽は神だというのではないというくだりは面白いですね。拝んでいる瞬間は神だけども、それ以外の時は太陽は太陽でしかないとか。
2019/2/13(水) 午前 6:48[ 楽山 (自由) ]



クリスチャンの作家といえば、自分が一番よく読んだのは三浦綾子かと思います。『道ありき』を読んで、こんな清い恋も有り得るのかと感動したことがきっかけだったかな。
ちなみに自分のクリスチャンのイメージは、『道ありき』の前川正です。まあ現実にはいろいろな方があるのだろうけど…。
2019/2/13(水) 午前 6:49[ 楽山 (自由) ]



遠藤周作は、『イエスの生涯』『深い河』『おバカさん』『わたしが・棄てた・女』という感じで読んでますが、後の三作は、主人公はどれもとてつもないお人好しで、ところどころに福音書っぽいところがあるのは共通してます。
ちなみに、『わたしが・棄てた・女』の森田ミツは、他人の悪意が分からない人らしくて、男から酷い仕打ちを受けても怒らず恨まず、自分がどん底にあるときでも困ってる人がいると救けずにはいられない性質で、さらには手首に痣があるというし、誰がモデルかは容易に想像できますね。
『深い河』はこれを男女逆転させて、女にふりまわされ、棄てられたお人好しの男の話。
2019/2/13(水) 午前 7:01[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん おはようございます

「河合隼雄は自分にはいまいち合わないかなという感じ」

そうですね。合う合わないということであれば、私も合うとは言えないのですが、八方美人というのも失礼な気がしますし、でも問題と言いますか、課題にいろんな見方、考え方を取り入れながら、あまりはっきりとした答えは出さない良心?みたいなものを感じますが、どうでしょうね。
日本人のカウンセラーの手本みたいな人かなという感じでしょうか。心理学的見地からの見方と私が感じていることとは基本的には異なるのは当然ですが、河合さんが「日本人」という病とかんじておられることはどういうことだと思われましたか。
2019/2/13(水) 午前 9:43[ shalom ]



「でも太陽を拝むからと言って、太陽は神だというのではないというくだりは面白いですね。拝んでいる瞬間は神だけども、それ以外の時は太陽は太陽でしかないとか。」

そうですね。面白いですね。
日本人の受容と排除、順応の巧みさ、ご都合主義が丸出しですね。(笑)
人として拝むという心の行為をどのように理解しているかでしょうね。太陽と言えども諸行無常であるいずれ消えさるこの世の事物の一つに過ぎないと私は思っていますが、しかし、太陽なしに人間は存在し、生きることもできないがゆえに太陽を拝みたい心情になったとしても“あり”かなとは思います。それでも神、あるいは神のような存在として拝む対象にはならないというのが私の考えるところですね。神の被造物の一つであって、木の葉一枚と変わらない、しかし、イエスが神は私たちの髪の毛一本すら数え、心にとめておられるという存在だと思います。
2019/2/13(水) 午前 11:22[ shalom ]



天にある神の視点と地に生きる人の視点、もちろん神の視点は神から人に与えられなければならない視点(危うい表現ですが)であり、信仰ですが、ともに必要な視点だと思うのですが、例えば神の視点は基礎(土台)、人の視点はその基礎、土台の上に築かれる建造物ということかな、ではどうでしょうね。
2019/2/13(水) 午前 11:24[ shalom ]



新約・第一コリ
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
2019/2/13(水) 午前 11:25[ shalom ]



> 楽山 (自由)さん

「自分のクリスチャンのイメージは、『道ありき』の前川正です。」

三浦さんは敗戦まで子供たちに教えてきたことを墨で黒塗りしなければならなくなり、自分が人事、教えてきたことが否定された時、絶望し、教師であり続けることができず、更に結核にかかり、身も心も行き詰ま理、生きる希望を失っていた時、前川さんを通して十字架につけられたイエスさまに出会い、

「こんな清い恋(愛)も有り得るのかと感動し」

信じたのでしょう。三浦さんは前川さんと出会ったのは事実ですが、三浦さんにとって、それはイエスさまと出会うことともなったのです。
河合さんの言葉を借りると、
三浦さんは前川さん(太陽)を拝むのではなく、出会ったイエスさま(真の命の光である)を拝するクリスチャンとして復活したのですね。
それが道ありき、氷点、塩狩峠などを書いたクリスチャン作家三浦綾子の原点ではないかと思います。
2019/2/13(水) 午前 11:54[ shalom ]



>河合さんが「日本人」という病とかんじておられることはどういうことだと思われましたか。

その部分が一番知りたいところでしたけど、いまいちよく分かりませんでしたよ。私の読解力不足かもしれませんが、著者もあまりハッキリ言うつもりはないのかも。
とりあえずは、合理的でないとか、空気に流されるとか、よくある日本批判なんだろうと解釈しときました。
2019/2/13(水) 午後 7:57[ 楽山 (自由) ]



>>「でも太陽を拝むからと言って、太陽は神だというのではないというくだりは面白いですね。拝んでいる瞬間は神だけども、それ以外の時は太陽は太陽でしかないとか。」

>そうですね。面白いですね。
日本人の受容と排除、順応の巧みさ、ご都合主義が丸出しですね。(笑)

失礼、説明不足でした。太陽のくだりは、アメリカ先住民とユングの話です。ただそのあとに、日本の話が続いてます。
こんな感じだけど、この部分は興味深い。↓
2019/2/13(水) 午後 7:57[ 楽山 (自由) ]



>インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてがものすごく内的な感動を生みます。それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。それを、どうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。ここが非常に大事なところです。今でも日本人には名残が残っています。山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。あれは、別に木や石が神様ではなく、大きい木や石に体面したときに感じるすべて、これが神なんです。区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。
(『「日本人」という病』河合隼雄、潮出版社、1999年初版、p.183)
2019/2/13(水) 午後 7:58[ 楽山 (自由) ]



>道ありき、氷点、塩狩峠

「塩狩峠」は実話が元になっているというからすごいですね。
あと、もう一作、付け加えるなら、「泥流地帯」も名作と思います。
三浦光世さんの講演で、「泥流地帯」をすきと言ってて、うれしく思った記憶があります。
2019/2/13(水) 午後 8:00[ 楽山 (自由) ]



(私)
宗教は人間離れという先入観満載の話し合いを、偽キリスト者シャロームと、深く関わらないコンニャク宗教論者の安楽山が、否定も肯定もせずに安楽?に語り合い、噛み合っていない、という結論も判断もないコメント欄のようです。相変わらず、シャロームの執拗な口から出まかせが目立っています。
2019/2/13(水) 午後 11:27st5402jp



(安楽山から引用)
「でも太陽を拝むからと言って、太陽は神だというのではないというくだりは面白いですね。拝んでいる瞬間は神だけども、それ以外の時は太陽は太陽でしかないとか。」
そうですね。面白いですね。
(シャローム)
日本人の受容と排除、順応の巧みさ、ご都合主義が丸出しですね。(笑)

(私)
ご都合主義は、今まで書いてきたように、シャロームの専門です。騙しやすい人を受容し、反対者を排除し、世間話をして和ませ、誇大妄想的な自説を得々と述べて、それで充足するだけのいかさま伝道者です。その根拠は、ずっと変わらず、罪を認めず悔い改めを拒んでいることです。
2019/2/13(水) 午後 11:27st5402jp



(シャローム)
人として拝むという心の行為をどのように理解しているかでしょうね。太陽と言えども諸行無常であるいずれ消えさるこの世の事物の一つに過ぎないと私は思っていますが、しかし、太陽なしに人間は存在し、生きることもできないがゆえに太陽を拝みたい心情になったとしても“あり”かなとは思います。

(私)
まず人間と太陽の諸行無常のスケールの違いを区別できないシャロームです。人間の諸行無常に込められている人間の哀感を全く理解していないからです。太陽といえども・・とは、誰を相手に張った言葉なのでしょう。
(私)
人間性を疎かにする偽善者は、人間には興味がなく、また人間に共感することもなく、ゆえに、太陽の必要性と宗教を混同して、太陽崇拝の心情をそこでのみ判断して”あり”と言っています。宗教を好奇と興味だけで受け取っている証拠です。人間の心情が分からない人なのです。
2019/2/13(水) 午後 11:33st5402jp



(シャローム)
それでも神、あるいは神のような存在として拝む対象にはならないというのが私の考えるところですね。神の被造物の一つであって、木の葉一枚と変わらない、しかし、イエスが神は私たちの髪の毛一本すら数え、心にとめておられるという存在だと思います。
2019/2/13(水) 午前 11:22 [ shalom ] 返信する

(私)
そしてこのような断定の結論によってのみ信仰を表したつもりになり、大仰な讃美言葉が特徴です。あたかも信仰告白をしているようですが、シャロームは、罪を認めず悔い改めをしないことは、前にも述べたとおりです。今日も、ごまかしが通用すると思って、得意げなのです。そのような者が、キリストの敵となり、キリストを殺しました。
2019/2/13(水) 午後 11:33st5402jp



(シャローム)
天にある神の視点と地に生きる人の視点、もちろん神の視点は神から人に与えられなければならない視点(危うい表現ですが)であり、信仰ですが、ともに必要な視点だと思うのですが、例えば神の視点は基礎(土台)、人の視点はその基礎、土台の上に築かれる建造物ということかな、ではどうでしょうね。
2019/2/13(水) 午前 11:24 [ shalom ] 返信する

(私)
以前、シャロームは、神の眼を持つことが大切だと言っていました。今回、表現を和らげているようですが、これもシャロームらしい詭弁です。神の視点が人に与えられる必要な視点だと言っています。危うい表現と思うなら、言わなければよいのですが、括弧を付けて、それでも、自らの神の視点を主張しているのです。神の視点を土台として人の視点が築かれると言っています。騙されないでください。非常に危険です。
(私)
安楽山は、ああでもないこうでもないワールドを楽しみたいようなので、コンニャク問答をして、事の重大性に気づかないようです。こういう迷惑もあるということです。
2019/2/13(水) 午後 11:33st5402jp



(シャローム)
新約・第一コリ
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
2019/2/13(水) 午前 11:25 [ shalom ] 返信する

(私)
もう、このような恣意的な聖句の悪用に騙されることはないと思いますが、神が据えたキリストという土台を唱えて、自己正当化を企んでいるに過ぎません。
2019/2/13(水) 午後 11:34st5402jp



(コリント人への第一の手紙、口語訳)
3:12
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
(1コリント3:12-13、新約聖書)

(私)
シャロームが、どのように聖句を悪用しても、聖書は、その結果が見逃されることはないということが書かれています。小手先の罠を仕掛けるシャロームと違って、聖霊を受けているパウロによって。
2019/2/13(水) 午後 11:34st5402jp



(私)
人間に相応しい信仰の愛に出会うことがなく、それゆえ、人間らしい愛も信仰も語ることの出来ないシャロームは、真の命の光、復活、という大仰な言葉を使って、人の愛から信仰の愛への目覚めを語って誉め上げて、分かっている知識人を装うしかないのです。そして、罪も悔い改めも脇に置いている、ということを考えないと、するっと受け入れてしまいやすい筆致であり、そこが、シャロームの騙しのテクニックであり、さらに、背きを深くしてゆくのです。
2019/2/13(水) 午後 11:34st5402jp



(安楽山が引用)
>インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてがものすごく内的な感動を生みます。それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。それを、どうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。ここが非常に大事なところです。

(私)
超常や自然の驚異を神として見るのは、それが、人間技とは思えないからでしょう。キリスト教においては、キリストという人格を持つ存在が大きいので、人格面を疎かには出来ないのですが、シャロームのように人間的共感の欠損している者は、信仰の名で、自分を救う専用の依怙贔屓の神だけを想定してしまうのです。
2019/2/13(水) 午後 11:35st5402jp



(安楽山が引用)
今でも日本人には名残が残っています。山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。あれは、別に木や石が神様ではなく、大きい木や石に体面したときに感じるすべて、これが神なんです。区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。
(『「日本人」という病』河合隼雄、潮出版社、1999年初版、p.183)
2019/2/13(水) 午後 7:58 [ 楽山 (自由) ] 返信する

(私)
神と感じると言っていますが、大きな違いとして、大きな木や石は人間ではなく、また、言葉を持ちません。そのような荘厳な雰囲気の中で感じる神は、人格との共感も交流もありません。ただ大きな存在として敬っているのです。それが、原始的な崇拝のあり方ではありますが、宗教を語るのに、そのような見方だけだと、偏っていると言わざるを得ません。
2019/2/13(水) 午後 11:36st5402jp



(私)
宗教には、言葉を持つものがあり、キリスト教もその一つです。聖書によって、人間が受ける共感や愛というものは、自然の事物と同次元で語れるものではありません。そこには教えがあり、生きている神と人間との交わりがあります。
(私)
その人間でも分かることを、シャロームは、全く理解していませんし、安楽山も、同じように人間離れを、雰囲気的に、神聖と感じて、それが宗教だと思っているようです。その理解にとどまるかぎり、結局、ああでもないこうでもない不思議ワールドに、趣味的に遊ぶことしかできないことになります。つまり、宗教の10分の一も語ったことにはならないのです。
(私)
大事なのは、シャロームの言うようなインチキの神の視点などではなく、あくまで、人間の視点であり、人間の立場であり、人間の生き様であり、人間の共感なのです。少なくともキリスト信仰において言えることとして、人間の手に負えないことを、不思議ですねと語るのが信仰ではなく、人間の手に負えることを聖書から読み取ることが信仰を学ぶことです。
2019/2/13(水) 午後 11:36st5402jp



15日アップ予定の記事です。「詭弁の視点」
2019/2/13(水) 午後 11:38st5402jp