*つづき
 前記事のつづきです。
 ここでは、st氏が、悔い改めは神の恵みだということを実感できず、理解もできないことが明らかになっています。
 またst氏は、楽山との会話中に、「おそろしい」という言葉を残して退散してます。
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前にも書いたことがあったと思うけど、
stさんのシャローム批判は、シャロームさんの言動から、シャロームの本音はこうだろう、こういうことを考えているのだろう、そういうシャロームを放置していたら、どんなことが起きるだろう…というように、推測、想像によって構築されている部分が多いようです。
人が推測、想像を少しも交えることなく語るのは困難だけど、それにしてもstさんのシャローム批判にはその部分が多すぎるみたい。ここは修正した方がよいのではないかと思います。
2019/2/17(日) 午前 6:21[ 楽山 (自由) ] 



そのまま受け取るよりはマシだと思います。推測には、根拠と動機があります。誰の発言も、推測して、悪いほうに疑うわけではありません。邪推とは違います。嘘、罪の意識と悔い改めの意志の欠如、訂正不能、侮辱、など、シャロームには、悪い根拠がそろい過ぎています。これで、そのまま受け取るほうが異常だと思います。
2019/2/17(日) 午前 7:30st5402jp



楽山さんの言っていることは、これもまた、嫌われないようにするお付き合いの話だと思います。でも、コメント欄に書いてあることは、しばしば、思想や宗教が入ってきています。スタンスを変更したほうがよいと思います。推測することや疑うことが苦手とおっしゃるなら、仕方ないですから、あなたに無理にとは言えませんけど、私を、推測は良くないと批判する理由としては浅いと思わざるを得ません。
2019/2/17(日) 午前 7:39st5402jp



stさんからしたら、十分な根拠を元にシャローム批判をしてると考えてるのだろうけど、残念ながら私から見たら微妙なことが多いです。何といったらいいか、事実を根拠にしているというよりは、推測を根拠にして論を展開しているみたいです。
たとえば、シャロームは悔い改めは必要ないとしているという批判も、そうなってると思います。
2019/2/17(日) 午前 9:06[ 楽山 (自由) ]



「シャロームは悔い改めは必要ないとしている」については、シャロームは、必要だが、神が与えると最近、言いました。しかし、悔い改めるのはシャロームなのに、神が与えるというのは、おかしいのです。神が導く(聖書より)のですから、悔い改めないでいるということは、神の導きがないわけで、そこから推論として、本当は悔い改める気がないことを、言い逃れるための詭弁だということになります。前に書きましたけど、悔い改めていないと言われれば、キリスト者なら、いや悔い改めています!と答えるはずなのです。信仰がないと言われてるのと同じですから。
さらに、事実としては、シャロームの発言として、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、というのが、もうずいぶん前にありました。それを訂正していないのです。
2019/2/17(日) 午前 9:27st5402jp



それと、推測は議論の中心でしょう。楽山さんは、面と向かって、シャロームが、神を罵倒でもしない限り、認めないということなのでしょうか。そういうことが起こってからというなら、議論は、いっさい無意味です。ここで必要な論理は、人間ならば、という立場から、必然を推測することです。それを認めないというのであれば、やめましょうか。
2019/2/17(日) 午前 9:33st5402jp



このことは、前に言ったことと同じで、事実が目の前で起こって、慌てふためくまで、何も気づくための努力をせず、推測だから分からないと言い続けるということになるでしょう。堂々巡りでしょう。私との遣り取りが嫌ならレスしなければよいのです。
2019/2/17(日) 午前 9:43st5402jp



どうも楽山さんは、理路とか必然とかを考えていないか、考えるのをめんどくさがっているように思えます。それで、いつも、暫定的な結論さえも出ないのでしょう。そういう人を相手にするのは、話が戻りやすくて、例えば、9まで行った後で、1にこだわるようなものでしょう。停滞と保留のままが好きなら、そうすればよいのです。あなたはクリスチャンでもないのですから、私は、応援を望んでいるわけではありません。無視したことについて、いろいろ意見がありそうだから、やり取りしてきたのです。私の心の健康を害しそうなので、この辺で。
2019/2/17(日) 午前 9:56st5402jp



コメント投稿しようとしたところだったけど、終わりにしようということでしょうか。
でもせっかく書いたし、こちらも最後と思って、二、三投稿さしてください。すみません。
2019/2/17(日) 午前 10:22[ 楽山 (自由) ]



私の理解では、キリスト教の人間観は、人は罪にとらわれていて、自力では善い事はできない、人が善い事をするには神の導き、助力が要るというものだと思ってます。
西洋の書物では、著者が前書きで、「この本に間違いがあったらそれはすべて自分の責任であり、もし良いところがあったらそれはすべて神のおかがである」というようなことが書いてたりするけど、これは上のような人間観があるのじゃないかな。
これからすると、シャロームさんが、悔い改めは神が与えるといったとしても、そうおかしくないです。
また神は、人が必要とするものを、それがふさわしい時に与えるのであれば、人が悔い改めをしないのは神に導かれていないというよりも、神はそれを与えるのにふさわしい時を待っておられることになると思います。
2019/2/17(日) 午前 10:24[ 楽山 (自由) ]



>さらに、事実としては、シャロームの発言として、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、というのが、もうずいぶん前にありました。それを訂正していないのです。

stさんの記憶ではそうなのだろうけど、第三者が確認できる記録がないのでは根拠としては十分とは言えないように思います。
ただ悔い改めと赦しについては、赦しは悔い改めよりも先にあるということは、神父さんの本で読んだことはあります。
また「レ・ミゼラブル」でも、悔い改めより赦しが先になってます。ジャンバルジャンは泥棒の罪を神父に赦されてから、悔い改めるという流れ。
想像するに、シャロームさんがこの思想について語った結果、議論を経るうちに、上のような嫌な言い回しに変化され、stさんの記憶に定着したのではないでしょうか。
2019/2/17(日) 午前 10:31[ 楽山 (自由) ]



では、こちらもこの辺で休みます。
stさん、対話してくれてありがとうございます。
2019/2/17(日) 午前 10:34[ 楽山 (自由) ]



やはり、おそろしい。自分では、途方もない理屈をこねているではないですか。どこが自分らしいのでしょう。推測以上の何物でもない。よく、いけしゃあしゃあと言えるものです。何一つ、まともなキリスト共感ではないです。本に書いてあったら正しいわけ?信仰の実感もないくせに。
悔い改めが与えられるというのも、棒のような理屈を並べているだけです。あなたが、いちばんの思い込みカルトです。知識の寄せ集め。時間の無駄。推測魔は、あなたです。怖い。
2019/2/17(日) 午前 11:26st5402jp



神妙な言い回しで、笑っているのも、あなたでしょう。一生、キリスト教に近づかないで。あなたが、いちばん人を害する要素を持っています。
2019/2/17(日) 午前 11:28st5402jp



あちこちから拾ってきたような理屈、接着剤のように粘着している自我、柔和を装う丁寧語は、シャローム以上の自己絶対と排他を根っこに持っているナルシシストだった。
2019/2/17(日) 午前 11:46st5402jp



> 楽山 (自由)さん おはようございます

「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話の良き手本はどのような対話であるかを教えてくださりありがとうございました。
また「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話ができないと心の健康を害することをも身をもって教えてくださりありがとうございました。
2019/2/17(日) 午後 0:09[ shalom ]



ところで、山本七平氏による日本教について、もっと丁寧に読みたいのですが、まだ本が送ってきませんので、少し読み直してみました。
印象に残ったことを書いてみます。
「神は空名なれど」はいいのですが、もう一度読んでみます。
「五・一五事件と純粋人間」に書かれている“人間であれ”という言葉の意味でした。「人間であれ」ということは、一言にして言えば「まず日本教徒であれ」ということで、いいかえれば「日本教の教義(人間規定)に忠実であれ」ということだと書かれています。
2019/2/17(日) 午後 0:10[ shalom ]



また『「成長」「変節」のない思想』には日本教には二人称しかないということがかかれていました。
日本人の会話には一人称がないとよく言われていることと同じかなと思いました。一人称とは「私」「私たち」で、二人称は「あなた」であり、「お前」ですが、日本教には二人称しかないといいうのです。面白い表現ですね。一人称と二人称の関係であって、対話が成り立つけれども、二人で会話していても「二人称しかな」というのです。不思議な会話、奇妙な対話ですね。
なぜこんなことが起こるのか?答えははっきりしていると思います。つまり一人称と二人称とのはっきりした区別がないからですね。つまり、「私」と「あなた、お前」の間の区別が不明瞭か、無いからです。つまり自他未分化なのです。
2019/2/17(日) 午後 0:13[ shalom ]



「お前のお前」には二人称のみの世界の対話方式について書かれています。二人称のみの対話方式におけるの対話の在り方と責任について書かれているようです。「二人称しかない」会話、関係の責任の所在が不明確になることを恩田木工と天皇制について書かれています。私は恩田木工については全く知りませんが、その内容はとても身近に体験することであり、天皇制については敗戦後の日本復興の原理、原動力となったことで理解できます。日本教国日本の家族関係や教育関係、企業、政治などあらゆる分野で日常的に起こっていることを見聞きすることができるようです。

こんなところがとても心に残りました。
楽山(自由)さんが読まれる時、shalomがあんなことを書いていたがと心にとめて読んで下さればと思います。
そして感じられたことを教えてくだされうれしいですね。
2019/2/17(日) 午後 0:14[ shalom ]



前に、悔い改めより先に赦しがある云々と書きましたが、少し修正します。
確認したら、「ゆるしが先で改心があと」となってました。
悔い改めと改心の違いは、いまいち判然としませんが、記憶違いがあったことはお知らせしときます。失礼。

>「ゆるしが先で改心があとなのです」(『キリスト教がよくわかる本』井上洋治、p.57)
https://twitter.com/jiyuu2018/status/1096967892749303809
2019/2/17(日) 午後 0:15[ 楽山 (自由) ]



> stさん

自分のせいで、stさんには嫌な思いをさせてしまったようですね。すみません。
では私の方では、これで引き下がることにします。では、失礼。
2019/2/17(日) 午後 0:16[ 楽山 (自由) ]



午後 0:13 [ shalom ]
下から四行目の「しかな」というのです。は「しかない」の誤りです。
2019/2/17(日) 午後 0:21[ shalom ]



> 楽山 (自由)さん

「確認したら、「ゆるしが先で改心があと」となってました。
悔い改めと改心の違いは、いまいち判然としませんが、」

神は罪の支払う報酬は死であるといわれましたが、神は人の罪であり、人、自ら支払うべきである罪の報酬である死をご自分の罪なき神のひとり子であるイエス・キリストを裁き、その十字架の死によって支払い、その罪のあがないにより、私たちの罪、神との失われた関係、的外れの状態にある私たちの罪を赦して下ったというのです。信仰によって受け容れ、心の方向、向きを変えることを悔い改め、改心、回心というようですね。
神による赦しが先にあり、わたしたちのくいあらため、かいしんがあるのですね。

【口語訳】新約・第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
2019/2/17(日) 午後 0:49[ shalom ]



> 楽山 (自由)さん

立春は過ぎましたが、まだまだ寒い日が続いています。
神は神との関係と交わりを見失ってしまい、その罪による寒さに身も心を凍り付かせて、息も絶え絶えに生きているわたしたちに神からのイエス様という北風ではなく、暖かい南風を送ってくださり、少しづつ重ね着して身も心も重く閉ざしている私たちが衣、鎧を脱ぐことができるようにしくださって言えるかもしれません。
2019/2/17(日) 午後 1:02[ shalom ]



>内緒さん

ありがとうございます。
こちらとしては、とりあえずは、しばらく静観しとこうと思ってます。
2019/2/20(水) 午後 7:52[ 楽山 (自由) ]



ところで、ここはすでに記事とは関係ない雑談場みたいになってるけど、ゲストブックの方に移動するというのはどうでしょう。
前に、shalomさんが建てたものもあるからそれを利用するのもいいし、新しく建ててもいいと思います。

・shalomさん
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
2019/2/22(金) 午後 6:37[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん こんばんは

「ゲストブックの方に移動するというのはどうでしょう。」

そうしましょう。
下のhttps://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.htm で良かったのでしょうか。次からそこに書きましょう。
私もちょっと「日本教の社会学」のはじめだけ読みました。
戦後の日本のアメリカ仕込みの民主主義もかなり怪しげなもののように思われます。やはり日本の民主主義はまるで竹に木を移植したようなもので、播かぬ種は生えないということでしょうね。
では shalom!
2019/2/22(金) 午後 10:20[ shalom ]