*末期
 「『嫌われる勇気』を読んでみる」のコメント欄のコピペです。
 この記事は、このブログに移行していませんでしたが、PCには保存しておいたのでここで公開します。記事だけなら(コメント無し)、アメブロの方には移行してあるので、そこで読めます。
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自由さん こんにちは

yahooブログもいよいよあと一週間となりましたね。

「自分が過干渉するのも、されるのも退けて、
自己の人生を充実させるために
活用できそうなものも多々ある」

私も嫌われる勇気を読んでなるほどと思いましたが、
でもちょっと疑問も残っていますね。

自分自身が他者に過干渉したり、他者から過干渉されたりすることから自由であるには、基本的に確かなI am OK!という自己肯定感なしにはむずかしいと思いましたが、どうでしょうか。
また他者が自分に対して過干渉であったりすることはその人自身にかかわることだという理解とYou are OK!という他者受容も必要ですね。
そのような確かな肯定感はどこから与えられるのかなとも思いました。
その肯定感なしには嫌われる勇気をもって自分の人生を充実したものと生きるのは難しいのではないかなと思いました。
shalom!
2019/8/24(土) 午後 3:35[ shalom ]



いま、第四夜を読み終わったところですが、その点については、勇気づけという方法が紹介されてました。
「ありがとう」と感謝されることによって、自分は共同体に有用な存在だと思うことができて、勇気をもって主体的に生きられるようになると…。
自己肯定感については、感謝がカギになってるんだろうと思います。

あとは、アドラーでなく、ユング心理学の方の人ですけど、林道義の本で、自己肯定感は乳幼児期の環境が大切だと説いていたのを読んだ記憶はあります。
乳幼児期に周囲から愛され、大切にされていると、自分は愛される価値あるという刷り込みがなされ、長じてからも自分に自信が持てるようになるとのことでした。
2019/8/24(土) 午後 5:27[ 楽山 (自由) ]



ブログについては、
先日は、アメブロにブログを作ってみました。
なんか、広告に埋もれてる感じですね。

・楽山日記(a)
https://ameblo.jp/aankzf2019/
2019/8/24(土) 午後 5:42[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん おはようございます

「山本七平の思想」を読み終え、改めて山本七平の「空気の研究」あとがきを読むと、空気と水によってかもし出される状況倫理によるご都合主義、際限なき相対化の支配は人を神のようなものとする偶像礼者とすることであって、日本においては天皇を現人神とする天皇制であるということのようです。空気と水を把握し、その拘束から解放される道は固定倫理によるしかないということのようですが・・・。
状況倫理、固定倫理については水の通常性の研究」(三)(四)・・・に書かれていますが、空気に水を差すことによって固定倫理に到達することはむずかしく、新たな空気の醸成をもたらすというのですから、救いようがないようですね。たしかに戦後日本は立憲君主から立憲民主主義に変っていますが、戦後日本の実態は戦前と少しも変わっていないことによって今日の日本において顕著に証明されているようですね。
今日の有権者(主権者)の劣化についての記事もその証明と言えるのでしょうね。
2019/8/25(日) 午前 8:37[ shalom ]



空気に支配されるということでは、日本だけでなく、欧米もそれっぽいですよ。たとえば、ポリコレ関連のニュースをみてると、欧米ではかなり厳しい空気に支配されてるみたいだし、この空気に水を差すのはほとんど不可能っぽい。
日本は戦前も戦後も空気に支配されてるのは変わらないだろうし、海外もそうだとすると、空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。
2019/8/25(日) 午前 9:24[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん

[空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。]

そうですね。
人の性(サガ)・・・人の性ではなく、自分自身の性ですが
それを聖書では罪というのです。
聖書は神による固定倫理が証しされているのですが、
人が神が食べてはならない、それを食べるときっと死ぬといわれた善悪を知る木の実を食べ、固定倫理を見失うと罪という的外れの状態という奴隷となり、自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の拘束支配から自由になることは出来なくなり、混乱、争い、ついには死と滅びを招くというのです。
人の言葉や論理による逃れる術、道はないのですね。
歴史はその確かな証言です。
2019/8/25(日) 午前 10:30[ shalom ]



空気については、進化論的にも考えることは出来そうに思います。

前に読んだ本には、群れの中の評判と生存、羞恥心について書いてました。
その内容は、大体こんな感じだったかと。
動物を観察すると、群れのルールを破ったものより、破らないものの方が交尾の相手を見つけやすい。
つまり動物にも、評判というものがあるらしい。
人は進化の過程において、この自分に対する評判を分析する力を進化させて、他人が自分をどう評価するかという感覚を獲得した。これが羞恥心のもととなった。

これが本当なら、空気に逆らえないというのは、周囲の目を気にしていることだろうし、この辺りの機能が関わってる気はします。
あとは空気に逆らおうとすら思わないのは、魚や鳥の群れは一斉に同じ動きをしがちだけど、それと同じようなことなのかも。
2019/8/25(日) 午後 1:00[ 楽山 (自由) ]



嫌われる勇気、私も既読です?? 中々自分自身、それを持てませんけれど?? しかしながら世の中、嫌われる勇気を持っているとしか思えないような人物は結構いっぱい居るように思われてなりません??
2019/8/25(日) 午後 6:48[ アスミッチ ]



> 楽山 (自由)さん
> shalomさん
記事にします。楽山ブログのコメント欄。私のコメントは、大方、記事用です。
シャロームは、自身の罪と偽善と嘘の問題から目を逸らし、政治の転載記事を載せる一方、「日本教」の「空気」問題を日本を責めるために言いたいようですが、シャロームがボロクソな自説を言えば言うほど、無反省な人であること、自分の責任を負わない卑怯者であること、思想家気取りであることなどが、浮き彫りになってゆくのです。
(私)
しかし、シャロームは平気なのです。何故なら、楽山と同様、自分に都合の悪いことは無視して忘れてしまうからでしょう。シャロームの足跡には、罪悪の偽善の履歴が累々と積まれて繋がっているだけになるのです。
2019/8/25(日) 午後 7:15st5402jp



シャロームの前に道はない。シャロームの後に罪悪が残る。

シャロームが正義を語れば、ことごとく、
まさにその正義に反しているシャロームが浮き彫りになる。
シャロームは、日々、墓穴を掘っているのです。
2019/8/25(日) 午後 7:16st5402jp



相対化の支配はシャロームの、状況を弁えない世辞の賛同と妄想豪語に表れてきました。シャロームは、むしろ、熱心な日本教徒というべきなのでしょう。
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という固定倫理によって、おびただしい罪悪を、なかったかのように無視して、思想家気取りに逃げているのです。おぞましい偽善者の処世、あってはならないことです。
2019/8/25(日) 午後 7:17st5402jp



戦後日本は、戦前と少しも変わっていないでしょうか。戦前ならば、反政権の人々は、捕らえられていたでしょう。多くの人がABsに騙されているとはいえ、シャロームは、早くも、ボロクソ節基調で、日本の現状を嘲笑っているようです。こうやって、憂国を語るようで、実は、かえって母国をボロクソに、けがしてゆくシャローム。心から汚い人だと思います。
2019/8/25(日) 午後 7:18st5402jp



楽山のボンヤリ言語、「ぽい」言語が出ています。シャロームの、ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)は、恐ろしく反日に偏向してきたので、コレクトではないようです。こうやって、逃避して、政治や思想の話を書けば書くほど、シャロームは卑怯者という証拠になってゆくことを何とも思わないのでしょうか。・・思わないでしょうね、昔から無責任で、無理解な人だったから、まともな人間に対してのように説くことは無意味でした。
2019/8/25(日) 午後 7:18st5402jp



楽山のボンヤリ言語による世辞の交流も、シャロームの丁寧語による世辞の交流も、空気としてずっと作用しています。それが策略と暗示による誘導というものです。戦前戦後ではなく、カルトへの服従があり、一方では、他者に対する軽視~無視を、いつも根深く隠し持っているのです。

その軽視~無視は、批判すると、敵意と否定となって、あるいは、その代わりに、ごまかしと詭弁となって、表れてくるものです。批判しないのであれば、彼らの世辞に惑わされないでください。
2019/8/25(日) 午後 7:18st5402jp



[空気に飲まれるというのは日本だけの問題というより、人の性みたいなものかもしれません。]
そうですね。
人の性(サガ)・・・人の性ではなく、自分自身の性ですが
それを聖書では罪というのです。

自分自身の罪を決して認めないシャロームが言っていることを忘れないでください。
2019/8/25(日) 午後 7:19st5402jp



>聖書は神による固定倫理が証しされているのですが、

神の固定倫理を人は知りえません。人は不完全だからです。だから決めつけて固定することなく、反省しながら、祈りとともに、悔い改めを神に捧げ、その都度、信仰を新たにして、学習し成長するのが信仰の道です。シャロームは、このことが分からないので、固定倫理が証しされている、などと言ってしまうのでしょう。それは、人が神に成り上がっている、という、ありえない偽善者の立場なのです。
2019/8/25(日) 午後 7:20st5402jp



固定倫理を見失うと罪の奴隷と言っていますから、シャロームは、固定倫理を知っているつもりであることが明らかになっています。そして、自らを神のような存在として思い上がるのです。思い上がるゆえに、またしても、罪を、アダムとエバのせいにしています。アダムとエバは、今の私たちなのですが、何度言ってもシャロームは聞く耳を持ちません。
2019/8/25(日) 午後 7:21st5402jp



自らを神のような存在とし、状況倫理によるご都合主義と際限なき相対主義の支配となっているシャロームのボロクソ論理において答えは明らかです。自らを神のような存在にすることは決してできないのに、それをしているつもりのシャロームは、言うことが矛盾して、ばらばらになり、ついには、混乱、争い、ついには死と滅びを招く、というふうにボロクソ悪口で他者を貶めるしかなくなるのです。自らに迫っていることを、人に当てはめるのは、シャロームの虚しい言い逃れです。
2019/8/25(日) 午後 7:21st5402jp



シャロームという人の言葉や捏造妄想教理によっては、逃れるすべも道もないのです。信仰の立場から言えば、シャロームが、いかに、妄想教理を捏造しても、隠そうとしても、神は見逃すことはなく、ゆえに、神が裁くのです。全能の神が、罪と偽善の証拠がないからと、できない、ということは、決してないのです。

まさに、最終的には、神が裁くのだ、というところに、正直なキリスト者であれば、偽善者シャロームの自己満悦とは全く異なるところの、ゆだねる心の、神の平安があるのです。
2019/8/25(日) 午後 7:21st5402jp



今までの経過、そこに表れた発言などには、嘘吐き、偽善者、妄想家、ボロクソ思想、証拠隠滅、コメント不承認による選別、理路の破綻、弁明不可、という、あらゆるインテリ気取りの偽りと罪が、シャローム自身によって、あらわになっているのです。隠そうとも、真実において、あらゆる正義は、シャロームを敵とするでしょう。うわべで演説ぶっても無駄なのです。
2019/8/25(日) 午後 7:22st5402jp



楽山は、インテリ風味に見せかけて、動物の群れへの従順が、人間の羞恥心のもとだという説を載せています。楽山は、動物の本能と、人間の意志を、区別しないようです。区別しているなら、そのことを言うはずだからです。アドラー教で平板な思考になっているゆえに、単純に進化論に呑まれて、関連しているよとばかり、その知識を、考えもせずに披露してくるのでしょう。

ボンヤリ言語の「かも」が出てきています。さらには、魚や鳥の群れの行動にまで広げています。魚や鳥は、気温・気象・環境などには体感があるかもしれませんが、集団の空気を読んで一斉に行動するのでしょうか。このように、楽山は、ボンヤリ言語の思考に支配されて、言葉づらの要素的繋がりの短絡が専らとなり、人間についての、一般的な理解さえも掘り下げることが出来ずにいるようです。
2019/8/25(日) 午後 7:22st5402jp



嫌われる勇気は、内向的で人の目を気にしすぎる人にとっては必要だろうけど、

知り合いの前では丁寧でも、見知らぬ他人の前ではマナー違反しても平気だとか、
目上の人の前では謙虚でも、格下の人には高慢に振る舞うタイプの人たちには、全然、必要ないかもですね。
2019/8/25(日) 午後 7:23[ 楽山 (自由) ]



>しかし、シャロームは平気なのです。何故なら、楽山と同様、自分に都合の悪いことは無視して忘れてしまうからでしょう。

私の考え方はこうです。
「コメ欄を占有することなく、穏やかに意見交換しましょう
やたらと連投したり、攻撃的な発言は止めてください」

したがって、
こちらの注意を無視して、
攻撃的な発言を連投し続ける方は、荒らしとしてスルー対応が基本となります。
2019/8/26(月) 午前 7:01[ 楽山 (自由) ]



>楽山のボンヤリ言語による世辞の交流も、シャロームの丁寧語による世辞の交流も、空気としてずっと作用しています。

口では無礼講というときでも、基本的に人と人の間に礼儀はなくならないものです。
それに聖書について語る人に、唯物論的見解を披露するのを無作法だと非難するならともかく、世辞による交流だとするのは、私には理解しかねる見方です。

>楽山は、動物の本能と、人間の意志を、区別しないようです。

本能は遺伝的なものだろうし、意志は遺伝的なものだけでなく、環境も深くかかわってそうです。
いずれにせよ、ドーキンスの利己的遺伝子を読めば、自分は自分の意志で判断してるのか、遺伝子に動かされてるのか分からなくなるし、
進化心理学の本を読めば、さらに分からなくなりますよ。
2019/8/26(月) 午前 7:06[ 楽山 (自由) ]



> 楽山 (自由)さん
より深く、より詳細に、コメントしようという書き方が必要だから、記事に書いたことを、ほぼそのまま書いています。その必然を作ったのは、問題だらけの記事とコメントを書いている楽山とシャロームであります。それを、コメ蘭を占有、と言い、攻撃的と言っていることのほうが問題であります。

穏やかに意見交換できる相手とは、既に、思っていません。うわべだけの正論は、もはや通用しません。(楽山の)注意を無視して・・などと言うほうが問題であり、荒らしとしてスルー・・などは、コメントを読んで理解していないことを表しています。楽山のボンヤリ言語は、作為によって、荒らし以上の害毒と見なしています。
2019/8/26(月) 午後 0:53st5402jp



基本的に真実を曲げてきた相手に対して、礼儀は何の意味もありません。このことは、前に書いたと思いますが、またこのようなことを書いてくることが、気に入らないことを無視するアドラー教か、楽山の体質または意志、つまり、不都合忘却の結果なのです。怒号ではないだけ、冷静に書こうという意志の表れです。
2019/8/26(月) 午後 0:54st5402jp



ここでも、また、被害者芝居をしている楽山です。楽山は、反省しないのだから、理解しないか、できない人、だと承知の上です。穏やか芝居の偽善があれば、それを批判するコメントが付いてくるのは当然のこと、判断は読者がするでしょう。

なお、「唯物論的見解を披露するのを無作法だと非難する」などという次元での批判はしないのです。無作法ではなく、殆どの見解において、楽山は、理路の片落ちと欠陥があることを指摘しています。理解しかねる・・というのは、私の問題ではなく、楽山の問題です。
2019/8/26(月) 午後 0:54st5402jp



分からないのだから、何を書いてもいい、という判断でしょうか。何を書いてもいいけれど、人間の心の問題抜きに語れない問題を、進化論で語ろうとすれば、欠落している視点について、心の問題について、指摘し批判することになります。当然、批判は付いてくるということです。加えて、楽山の、穏やかさは、今までの経過より、自己正当化の保身であるという判断です。
2019/8/26(月) 午後 0:55st5402jp



愛とか心とか信仰とかいったテーマについて、楽山、シャローム、易坊は、書けないのではないかと思っています。ゆえに、シャロームは世辞と讃美が多くなり、楽山は唯物論的思考や条文的思路が多くなり、易坊は都合の良い学問みたいな解釈を振り回して荒らしてきます。ゆえに、キャラ設定だけを分けた成りすましをも疑うことになっています。
2019/8/26(月) 午後 1:10st5402jp



>ゆえに、キャラ設定だけを分けた成りすましをも疑うことになっています。

これについては、私は、シャロームさん、易坊さんとは別人ですとお答えしておきます。

あと先に書き忘れてしまいましたが、強引な割込みは止めてくださいともお願いしておきます。
私が他の方と話をしてるときに、強引に割り込んできて、攻撃的なコメントを連投するということが、ちょいちょいあるし、これは御勘弁ください。
2019/8/26(月) 午後 9:32[ 楽山 (自由) ]



それから、スルーの理由をさらに書いておけば、前にも書いた通り、人生観、信仰観、感性、感想などは、人それぞれだと考えるからです。
事実関係についての議論ならまだしも、人生観、信仰観、感性、感想などは、これのみが正しいとは断定できないものであるし、議論しても仕方ないです。
「私はこう思う」「そうですか。私はそうは思いません」で終了です。
これについて、もし議論しようとするなら、相手に対して、「私と異なる人生観、信仰観、感性、感想を持つのは間違いだ。私と同じ人生観、信仰観、感性、感想を持つべきだ」という主張をすることになるでしょうし、私はそんなことはできません。
だから、私とは異なる人生観、信仰観、感性、感想、人間観…などに基づく意見、批判については、反論の必要性はさほど感じません。
ましてや、stさんはご自分のコメントは「と思う」ということだと書いてたし、そういう感想コメントに、その感想は間違いだなんていちいち言いませんよ。
2019/8/26(月) 午後 9:34[ 楽山 (自由) ]



ところで、ブログの引越しではコメント欄は切り捨てられるという話なんで、
記事修正できなくなる前に、コメント欄を記事にコピペ保存しようと考えてます。
全部のコメント欄をそうするのは無理だろうけど、直近のやつくらいはそうしとくつもりではあります。
2019/8/26(月) 午後 9:52[ 楽山 (自由) ]



> st5402jpさん こんばんは

「愛とか心とか信仰とかいったテーマについて、楽山、シャローム、易坊は、書けないのではないかと思っています。」

あなたにとって「愛とか心とか信仰とかいったテーマ」は
現実のテーマではなく、ブログという仮想現実だけで虚しい言葉を書きつらねる言葉遊びをすることのようですね。
だれでも人は自分の人生ノートにそのテーマについて書くべき言葉をさがし求めながら生きているのではないでしょうか。
人のノートの書かれている言葉が気に入らないからと言って、
ただ人を誹謗、中傷するばかりなのですから、あなたの仮想現実という土俵でしかないノートでかわす言葉なんて一言もありませんよ。あなたもそうではないのですか。
2019/8/26(月) 午後 11:02[ shalom ]



あなたが今日一日、明日、その後どのように「愛とか心とか信仰とかいったテーマ」に向き合って、自分のノートにどのような言葉を書くか、他の人とどのように生きるかはあなたのテーマです。たまたま共感し合ったり、そうできないとしても、あなたはあなたであり、私は私であり、私の生き方にあなたが干渉したり、また、あなたも他の人に干渉渉されることでもありません。もし、そうできないのであればあなたはかけがえのない自分の自尊心を乗っ取られてしまい、自己肯定感のないまま自立も、自律もできていないからではないでしょうか。心を乗っ取られた怒りと不信、うらみをぶつけて他の人の心を自分の支配のもとに取り込もうとしても、自分の心を取り戻すことは出来ませんよ。それ心を癒し、回復してくださる方がイエスさまです。あなたのイエス様にはできないのですか。
2019/8/26(月) 午後 11:04[ shalom ]



私と、楽山さんと易坊さんはなりすましの同一人だという
あなたの妄想に付き合っているほど時間はありません。
もう十分すぎるほどの多くの時間を費やしているとは思いませんか。
人はそれぞれ、自分の思い、感情、言葉、行動には自分に責任があるのです。
私たちだけではなく、誰もが認めようと、認めなくても、生ける神の御手に守られ、御手に導かれ、愛され、生かされているというのが私の信仰なのです。
あなたがどのように考え、思われるかはあなたの自由です。
いつまでも私のお尻をなめるような生き方をしているのはあなた自身であって、くさいくさいと文句を言っても、それは私のせいではありません。いつでもあなたが自分で自分の歩み始めればよいことです。今週でyahoo ブログもおしまいになりますから、残り少ないこれからの時間を大事にされてはいかがですか。
Shalom!
2019/8/26(月) 午後 11:05[ shalom ]