楽山日記

ヤフーブログから引っ越してきました。特にテーマは決めずに書いてますが、スピ系の文章が多めです。若気の至りでハマってしまった宗教についても書いてます。よろしくお願いします。ヤフーブログの楽山日記と区別するために、ブログタイトルの末尾にLDとつけていましたが、ヤフーブログはなくなったので、末尾のLDも削除することにしました。

大川隆法とその信者の特徴

 
 
 
上の記事を読みました。今回の記事は、「アンチ諸君、めでたしめでたし。 」とはまた違った論調のようです。
ちなみに、「アンチ諸君、めでたしめでたし。 」では次のような調子でした。
 
 それぞれの立場の人々が、それぞれの思想信条に基づいて自由に発言できる。私に対して「哀れなる人よ、早く目覚めよ」と助言くださるのも自由。
私は私で信ずるところに従い、自由に発言し、自由に行動することが許されている。
 これは、まことに有り難いことではないか。
自由こそが最高の価値。

そして、同記事のコメント欄には、次の発言があります。
 
ハイエクの、法律を守ってくれれば、それ以外は一切自由。これが私の政治的スタンスです。


いやなものはいやと自己決定する自由が大切です。

ただ、その後には調子は大きく変わり、次の発言がされています。
 
師に対する最低限の「礼」すら持てない「自己主張する主観」に私は敬意を表することはできない。

そして、今回の記事では、この路線をなぞるようにしてこうなっています。
 
 師に対する最低限の「礼」すら持てない「自己主張する主観」に私は敬意を表することはできない。
 礼を忘れ
 恩を忘れ
 膨張し肥大する自我がただ存在する。主観のみが、孤立して立っている。

 人は誰だって、意見が変わることもあれば、矛盾したことを言ったり、したりするものだとは思います。
 
けれども数日前には、「いやなものはいやと自己決定する自由が大切です」と主観的かつ感情的な自己主張をよしとしていながら、今になって急に、主観的な自己主張を否定すると言うのはいかがなものでしょう。
 
また、「法律を守ってくれれば、それ以外は一切自由」と法律以外の規範を軽んじる発言をしていながら、いくらも経たないうちに、忘恩、無礼などの道徳・宗教的な規範を持ち出して他者を非難するのはいかがなものか。
 
こういう変化は、わたしには理解し難く思われます。もしかしたら、ご本人には深い思慮があってのことかもしれません。単なる文章表現上の問題だとか、言葉のあやにすぎないのかもしれません。
 
ただそうはいっても、傍から見ていると、大川隆法とその信者諸氏の発言はあまりにもコロコロ変わることが多すぎるようです。無用の混乱を避けるためにも、大川隆法とその信者諸氏には、この点もう少しだけでも慎重にしていただきたいと思います。
 

嘘と方便のちがい

 
嘘と方便のちがいとは何だろう?
 
よく言われるように、相手に対して損失を負わせるか、利益を与えるかという点だろうか
 
この区分に従うなら、たとえば火事に気がつかず、部屋で遊んでいる子供に向かって、「早く庭に出てきなさい。新しいオモチャがあるよ」と言うのは、子供の命を守ることであり、子供の利益であるから、方便だろう。

しかしただの石ころにすぎないのに、「この石は本来なら、1000万円の値打ちがあるけれど、あなたにならば、100万円でお譲りします」と言うのは、相手に損させることであり、方便とはいえず、嘘となる。

嘘と方便のちがいは、これ以外にもあるかもしれないが、相手方に損失を負わせるか、それとも利益を与えるかというのは分かりやすい相違点であり、見分け方でもあるといえそうだ。


「アンチ諸君、めでたしめでたし。」を読んでみた。

 

上記二つの記事を読みました。雪宮さんの意見はよく分かるように思いましたが、加納さんの意見については、およそ三つほど、疑問を感じました。
 
まず一つは、加納さんの言う〝信仰者〟とは具体的にはどういう人を指しているのだろうかということです。

文脈から行けば、「幸福の科学」の信者を指しているように思えますが、ひょっとしたら、すべての宗教の信者を指しているのでしょうか。どちらなのでしょう。
 
二つ目は次の部分についてです。 

もし、アンチ諸君が、信仰者の政治参加を許さないというのなら、やがてあなた自身の自由が守ることができなくなるのである。

自由を奪われた時、あなたはなつかしく思いだすだろう。我々に対して自由に批判できた日のことを。
 
さきの衆院選で、大川隆法総裁は「みなさん、死にたくなかったら、“幸福(実現党)”と書いてください!」などと訴えたといいます。(*1)
 
上記はこれと同じ発想で、「幸福実現党を支持しなければ自由は奪われる。自由を奪われたくなかったら幸福実現党を支持しなさい」という意見なのでしょうか。

三つ目の疑問は、下の〝強制力をもって排除〟という部分についてです。 

信仰者の政治参加がことさら非難されるのなら、そしてそれを強制力をもって排除するということになれば、もはや日本も中国や、北朝鮮と同じ国に堕落したということである。
 
ここで言う〝強制力をもって排除〟というのは、あえて極論を言ってみたというだけのことでしょうか。
 
それとも、自分たちは〝強制力をもって排除〟されるかしれないと、本気で心配しているのでしょうか。もしそうであれば、そうさせないための対抗手段を用意しているのでしょうか。どうなんでしょう?
 
以上、三つの疑問点は、信者さんからしたら重箱の隅をつつくようでくだらないものかもしれません。けれども、教団の外にいるわたしからすれば、とても気になる論点なので、思い切って書いてみた次第です。
 


 

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