上の記事を読みました。今回の記事は、「アンチ諸君、めでたしめでたし。 」とはまた違った論調のようです。
ちなみに、「アンチ諸君、めでたしめでたし。 」では次のような調子でした。
それぞれの立場の人々が、それぞれの思想信条に基づいて自由に発言できる。私に対して「哀れなる人よ、早く目覚めよ」と助言くださるのも自由。
私は私で信ずるところに従い、自由に発言し、自由に行動することが許されている。
これは、まことに有り難いことではないか。
自由こそが最高の価値。
そして、同記事のコメント欄には、次の発言があります。
ハイエクの、法律を守ってくれれば、それ以外は一切自由。これが私の政治的スタンスです。
いやなものはいやと自己決定する自由が大切です。
ただ、その後には調子は大きく変わり、次の発言がされています。
師に対する最低限の「礼」すら持てない「自己主張する主観」に私は敬意を表することはできない。
そして、今回の記事では、この路線をなぞるようにしてこうなっています。
師に対する最低限の「礼」すら持てない「自己主張する主観」に私は敬意を表することはできない。
礼を忘れ
恩を忘れ
膨張し肥大する自我がただ存在する。主観のみが、孤立して立っている。
人は誰だって、意見が変わることもあれば、矛盾したことを言ったり、したりするものだとは思います。
けれども数日前には、「いやなものはいやと自己決定する自由が大切です」と主観的かつ感情的な自己主張をよしとしていながら、今になって急に、主観的な自己主張を否定すると言うのはいかがなものでしょう。
また、「法律を守ってくれれば、それ以外は一切自由」と法律以外の規範を軽んじる発言をしていながら、いくらも経たないうちに、忘恩、無礼などの道徳・宗教的な規範を持ち出して他者を非難するのはいかがなものか。
こういう変化は、わたしには理解し難く思われます。もしかしたら、ご本人には深い思慮があってのことかもしれません。単なる文章表現上の問題だとか、言葉のあやにすぎないのかもしれません。
ただそうはいっても、傍から見ていると、大川隆法とその信者諸氏の発言はあまりにもコロコロ変わることが多すぎるようです。無用の混乱を避けるためにも、大川隆法とその信者諸氏には、この点もう少しだけでも慎重にしていただきたいと思います。