楽山日記

ヤフーブログから引っ越してきました。特にテーマは決めずに書いてますが、スピ系の文章が多めです。若気の至りでハマってしまった宗教についても書いてます。よろしくお願いします。ヤフーブログの楽山日記と区別するために、ブログタイトルの末尾にLDとつけていましたが、ヤフーブログはなくなったので、末尾のLDも削除することにしました。

悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい (『ブッダのことば -スッタニパータ-』)

四三一 わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』(岩波文庫)中村元訳)

このことばは気迫がこもっていて、我が身が引き締まる思いがする。
 
ただそうはいっても、自分の中にはまだ御利益に無関心ではいられない心があるのだから情けない。とほほ。善業の功徳を意識することなく、さらりと生きられるようになるのはいつのことやら……。


「幸福の科学」信者のブログを読んでみた (12時信仰論)

 
絶対的でないものを神と崇める愚 - 幸福の観測所」からたどって、ピッポさんのブログ記事を読んでみたが、コメント欄での対話は興味深く、おもしろかった。自分なりに思うところをつらつらと書いてみたい。
 
まず、もん吉さんの意見は半分くらいは同意できた。

ただねえ僕は、人間大川隆法を神とする人がいることをどうこういうつもりはないんだよね。
人間の認識力には限界があるから、そういう信仰心の形を必要とする人もいるだろうから。
[省略]
観測所さんが、幸福の科学の一面を批判をするとしても他の人の信仰に対する配慮はするべきじゃないかなあ。

わたしも、幸福の科学での学びが必要な人はいるのだろうから、そういう人にまでどうこう言おうとは思わない。そういう人は、そのまま精進したらいい。
 
けれども、幸福の科学での学びは終わっているのに、そこに足止めされて、次の段階に移ることができないでいる人には、「幸福の科学から出ることを怖がらなくてもいい」と声を掛けてあげたいと思う。
 
幸福の科学のよくないところは、いったん信者にしてしまうと、信仰の綱を手放すと地獄に堕ちるなどといって、教団内に閉じ込めてしまうところ。こういうところはまるで蜘蛛の巣や、蟻地獄の巣みたいだ。形式的には入退会は自由とされているけれども、心理的にはそういうわけでもないのが困る。
 
批判については、他の人の信仰に配慮すべきというのはその通りだけども、幸福の科学の信者がそれを言うのは虫がよすぎるのではないだろうか。
 
幸福の科学は日頃、他者を厳しく批判しているわけだから、因果の理法からいって、それと同じくらいに批判を浴びせられることはになるのは止むを得ないと思う。

次は、とおりすがりの会員さんの発言について。


天国地獄があるか。わからないだって。
それで、信仰は否定していないだって。
ちゃんちゃらおかしいわ。

この辺りは、信仰の問題というよりも、知的誠実さの問題でないだろうか。
 
妄信者であれば、天国地獄の存在を信じるがゆえに、「ある」と断言してしまうのかもしれないが、ある程度の知性がある人ならば、天国地獄の存在を信じていたとしても、その存在を客観的に証明できない限りは、「天国地獄の存在は信じているけれども、『ある』と断言はできない」と慎重になるのは当たり前かと。

結局は、アンチや元会員を名乗っているアンチは、信仰の落ちこぼれよ。

信者から見たらそう見えるのだろうけれども、わたしは退会することで信仰を守り抜くことができたと考えている。
 
信者時代のわたしは、大川隆法と神とを重ねてみていた。たとえていえば、時計の12時の位置に神があるとすると、大川隆法も12時の位置にあり、両者は重なって見えていた。だから、大川隆法を信じることは即ち神を信じることでもあり、何の問題もなかった。
 
けれども月日が経つうちに、大川隆法の位置は、12時の位置からズレて行った。あれよあれよという間に、1時の位置、2時の位置、3時の位置……とズレて行き、ここで心に葛藤が生じた。
 
大川隆法の位置が12時からズレるのに合わせるように神の位置もズラして行くべきか。それとも神の位置はあくまで12時に固定させ、12時の位置からズレた大川隆法は神ではないと判断すべきか。
 
わたしははじめのうちは、前者の立場を取ろう努力した。大川隆法の位置に合わせて、神の位置も動かし、両者を重ねて見ようと努力した。でも、どうしてもだめだった。神の位置を動かすことはどうしてもできなかった。それで結局は、12時の位置の神を信仰し続け、そこからズレた大川隆法を神とすることは止めて、信仰対象から外した。
 
つまり、わたしは、大川隆法の位置に合わせて神の位置を動かそうと試みた一時期を除いて、ずうっと12時の位置にある神を信じ続けているということ。今になって当時を振り返ってみれば、あぶない時期もあったけれども、なんとか信仰心を持ち続けられたとホッとしてる。
 
それだから、今の信者さんたちを見ると、すごく気の毒に思う。大川隆法の位置に合わせて、神の位置を移動させた結果、元妻や元弟子に対して悪口雑言したりするような人を根本仏と信じなくてはならないところまで来てしまっているのだから、これは本当に気の毒でたまらない。早く、本来の神への信仰心を取り戻してほしいと思う。

そして、この禅宗の「大疑の下に大悟あり」か。
これは、はっきり言えばこいつを言った奴は、悟ってないね。

全然、ちがう話をするようだけども、わたしは以前、キリスト教を強く批判してた時期があったが、その当時、クリスチャンから言われたことを、いまだに覚えている。それは次のような趣旨のことば。
 
「キリスト教を批判するのはいいんです。過激な批判者だった者が、のちに敬虔なクリスチャンになる例も多くあります。批判するということは関心があるということの裏返しでしょうし、無関心よりはずっといいです」
 
このことばからすれば、「大疑の下に大悟あり」とは、「疑が大きく強いほど、悟りへの関心も強く深いのだから、それだけ悟りに近いといえるのだ」という風な解釈もできそうに思う。
 
大川隆法とその信者さんは、その全員でないにしても、他宗教の教えを軽んじる人がいるけれども、長く伝えられている教えには、やはりそれだけの含蓄があるわけだし、むやみに否定しないでその意味を調べたり、考えたりしてみてもよいのではないだろうか。おそらくは、その方が自分自身のためにもなると思う。
 
 
 
 

いかなる人の疑問をも、やさしく受け入れてくださるお釈迦様 (『ブッダのことば -スッタニパータ-』)



一〇二八 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。
一〇三〇 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、いかなる人にとっても、もしも疑問が起こって、心に問おうと欲するならば、何でも質問しなさい。」
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』(岩波文庫)中村元訳)

 いかなる人でも疑問点があるなら何でも質問しなさいと言ってくれる指導者は、まさに理想的な指導者と言えるのではないだろうか。
 
世の中には、弟子が疑問を持つことを禁ずる指導者や、質問されると腹を立てる指導者も少なくないのだから、このように疑問、質問に寛容な指導者とめぐり合えた人は幸せだ。
 
思い出してみれば、論語でも孔子とその弟子たちはずいぶんと自由な雰囲気で語り合っている。プラトンの対話篇でもソクラテスとその他の人々は自由な議論をしている。
 
ブッダ、孔子、ソクラテスらが、書物に記されている通りの人物であったのか、実際のところは判然としないが、ただそれでも多くの人々が、仏典や論語にあるように、疑問があるときには自由に語り合える師弟関係を理想としていたということは言えそうに思う。実際に、このような師と出合えた人は本当に幸せだ。
 



ギャラリー
  • 『はじめて読む聖書』田川建三ほか
  • 『ブッダという男』清水俊史著
  • 『光る国神霊物語 大悟徹底の手引書』門田博治、花井陽三郎著
  • 『易と人生哲学』安岡正篤著
  • 『ほくろの呼び鈴 父 実篤回想』武者小路辰子著
  • 『『涅槃経』を読む』高崎直道著
  • 『魔女狩り』森島恒雄著
  • 『国史総論』内田銀蔵著(昭和17年)
  • 『私の記録』東久邇宮稔彦著(昭和22年)
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  • 『皇国体の真髄』松永材著(昭和15年)
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  • 『韓国 堕落の2000年史』崔基鎬著
  • 『宣戦大詔謹解』朝日新聞社刊(昭和十七年三月)
  • 「小学」(新釈漢文大系 第3巻)
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