楽山日記

ヤフーブログから引っ越してきました。特にテーマは決めずに書いてますが、スピ系の文章が多めです。若気の至りでハマってしまった宗教についても書いてます。よろしくお願いします。ヤフーブログの楽山日記と区別するために、ブログタイトルの末尾にLDとつけていましたが、ヤフーブログはなくなったので、末尾のLDも削除することにしました。

信者とアンチのすれ違い 2

 
結局、アンチとは」にまとめられているアンチ批判を下に書き写してみました。①から⑤までが列記されていたもので、⑥から⑪までが地の文から抽出したものです。 

①嫉妬心が強い
②執着心が強い
③依存心が強い
④責任をすぐ外部に転嫁する
⑤揚げ足とりに終始する
 
⑥反省しない人たち(反省できない人たち)
⑦負け犬のようにすぐ吠える
⑧罵詈雑言ばかり
⑨恩を仇で帰す
⑩悪魔の弟子筋
⑪神のお心を、米粒ほども読もうとしない、慮ろうとしない人たち
 
何といったらいいか。ある意味、壮観です。大川隆法の著書にあるマスコミ、元妻、元弟子らに対する批判を取り出しても、こんな感じになりそうです。
 
嫌味とかではなくて、他人のことがこんな風に見えているとしたら、どんなに辛く、苦しいだろうかと想像します。
 
 
さて、気を取り直して、上の批判にこたえたいと思います。
 
①嫉妬心が強い
アンチに限らず、カルト教祖や信者に嫉妬する人はいませんよ。
 
②執着心が強い
③依存心が強い
アンチは、エルカンターレ信仰にしがみつくこともせず、エルカン―レに依存することもありません。また大川隆法と信者たちが正しいことをするのであれば別に批判はしません。
 
④責任をすぐ外部に転嫁する
アンチ活動の動機には、自分は、幸福の科学(カルト)の活動を支援するという間違いを犯してしまったという責任感があるものです。
 
⑤揚げ足とりに終始する
自分から見たら些細な問題にすぎないように見えても、その中に重大事が紛れ込んでいることもあるのです。神は細部に宿るといわれていることを考えてみてください。
 
⑥反省しない人たち(反省できない人たち)
退会者は、妄信することなく、反省したから、退会できたのです。
 
⑦負け犬のようにすぐ吠える
阿鼻叫喚地獄などの脅し屈せず、声を上げるためには、どんなに勇気が必要であるか想像してみてください。
 
⑧罵詈雑言ばかり
どちらかといえば、激昂して罵詈雑言するのは大川隆法とその信者でしょう。アンチはそれよりは失笑、嘲笑が多いかと。
 
⑨恩を仇で帰す
師が道を外れたら、それを諌めるのが弟子の役目。師が何をしても唯々諾々として従い、ご機嫌取りに終始すればいいというわけではないでしょう。
 
⑩悪魔の弟子筋
地獄霊には天使が悪魔に見えるといいます。そうであれば、誰かが悪魔に見えたからと言って、それが現実だとは限りません。
 
⑪神のお心を、米粒ほども読もうとしない、慮ろうとしない人たち
真なる神の心を感じているからこそ、和合僧破壊の罪などの脅しをはね返す勇気が湧き出でて、幸福の科学を批判できるのでしょう。
 
以上。批判にこたえながら、信者にはアンチの心理はなかなか理解しがたいものらしいとつくづく感じました。自分も信者だったころはそうだったし、これは仕方のないことなのかもしれませんが、少しさみしい気はします。
 
 
最後にひとこと。
 
信者には、自分の感じたことをそのまま事実だと思い込んでしまいがちの人が多いのではないでしょうか。
 
わたしには、信者の発想は、こんな感じに見えています。
 
「大川隆法総裁先生の説法は本当にすごいと思う。仏陀でなければこんな説法はできないはずだ。大川隆法総裁先生は仏陀だ」
 
「アンチの背後には悪魔の暗躍を感ずる。アンチは悪魔の弟子だ、傀儡だ」
 
こんな風に、信者には、自分の思いや感想を、そのまま事実としてしまう人が多いのではないでしょうか。
 
自分の直感を信じるということも時には大切だと思いますが、いつもいつも「自分が感じたこと=事実」という思考回路では正見は難しいでしょう。傍から見ていて、まるで暴走列車のようで人身事故を起こしそうな危うさを感じます。
 
自分の幸福のためには主観的な感じ方は大事でしょうが、他者の幸福のためには客観的な事実を無視することはできません。利他のためには、自分のしてあげたいことだけでなく、相手がしてほしいと望んでいることを知ることが大切であるように……。理性的な信者さんには、この辺りのことをじっくり考えてみてほしいです。
 

「幸福の科学」の自己責任論について


「幸福の科学」の自己責任論について、思うところを書いてみた 

・ 自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。
なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、
公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
たとえば、
危険な道路で事故が多発しているとき、
事故に遭うかどうかは、
各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、
危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 

・ 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。
何らかの問題が発生した場合、
すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。
その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、
反省の動機づけとして、
あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。
必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
・ 自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。
たとえば、
宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、
信者は自分を責めることはできても、
教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
・ 既にいろいろなところで指摘されているように、
自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。
より詳しく言えば、
自と他の関係において、
自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、
相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
また、
他と他の関係について、
第三者の立場から、どちらか一方に向かって、
「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。

以上
自己責任論というものは
いつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、
さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず
毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う

幸福の科学の界隈では
自己責任論によって
他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので
自分なりの考えを書いてみた次第である。


一生懸命に頑張ることの大切さ

 
アンチが必死すぎるとして
嘲笑う記事を見ました。
 
二つのブログに、同種の記事が一つずつありますね。
一人ではなくて、二人がそういう発言をした
ということでしょうか……。
 
わたしは、
アンチはアンチとして一生懸命に頑張ればいいし、
信者は信者として一生懸命に頑張ればいいと思ってます。
それぞれが、それぞれの立場で頑張ればそれでいいと思ってます。
 
また、
日本がこういう風になったのは、
一生懸命に頑張る人を嘲笑う風潮や、
一生懸命に頑張ることをはずかしいと思う風潮が
広まったことも一因にあると思ってます。
 
ついこの間、
サッカー元日本代表のキング・カズは、
日本人へのメッセージとして、
一生懸命に頑張ることを説いていました。
 
トルシエ元日本代表監督も、
日本に来て驚いたことの一つとして、
選手たちが一生懸命に頑張ることを恥ずかしがってる
ことを挙げていたそうです。
 
ロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』では、
ゴッドフリートという人物が、
何をもって英雄とするかという問いに対して、
自分の為し得る限りを尽くした人が英雄だと答えてます。
誰にもできないことを成し遂げた者ではなくて、
自分の全力を尽くした者こそが英雄だというのです。
 
幸福の科学では
たしか、
幕末維新のころの志士たちは、
討幕派でも、
佐幕派でも、
立場はどうあれ、
その心の状態によって、
死後の行先が分かれたのではなかったでしょうか。
 
とするならば、
何を為したかよりも、
どういう立場に立っていたかよりも、
純に、一途に、全力で頑張るということは
幸福の科学の価値観によっても、
とても大切なことではないでしょうか。
 
アンチが必死すぎるを嘲笑う信者さんには、
真面目に一生懸命に生きることについて、
よく考えてみてほしいと思います。
 
ちなみに、ジナ・サーミナラ著『転生の秘密』には
他人を嘲笑する罪と、そのカルマについて記されていたかと思います。
興味がある方は調べてみたらいかがでしょうか。
 
 


ギャラリー
  • 『はじめて読む聖書』田川建三ほか
  • 『ブッダという男』清水俊史著
  • 『光る国神霊物語 大悟徹底の手引書』門田博治、花井陽三郎著
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  • 『私の記録』東久邇宮稔彦著(昭和22年)
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  • 『皇国体の真髄』松永材著(昭和15年)
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  • 『韓国 堕落の2000年史』崔基鎬著
  • 『宣戦大詔謹解』朝日新聞社刊(昭和十七年三月)
  • 「小学」(新釈漢文大系 第3巻)
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