神のどのような命令にも、抗うことなく従順であるべきだという信仰論を聞くと、いつも疑問に思うことがある。
それは、神は、人が反抗することを期待して、あえて無理なことを命じることはあるのではないかということ。
具体的にはこういう例。
神 「○○を殺せ」
人 「神よ、お許しください。自分にはそんなことはできません」
神 「それでよい。もしお前が、本当に○○を殺すなら、わたしはお前を罰するつもりであった」
人 「神よ、お許しください。自分にはそんなことはできません」
神 「それでよい。もしお前が、本当に○○を殺すなら、わたしはお前を罰するつもりであった」
なんだか下手な例だけども、要は、人間に自由意思が与えられていることを思うと、神の命令に従順でさえあればよいというわけではないような気がするのである。
私はこう思うのです。
神教も仏教も日本人も外国人も願いと云うものはそんなに変わる
ものではないと思うのです。
では神教と仏教は何が違うのか?
それは、神教の場合は神様の命令を忠実に守る事で人としての
道を踏み外さない様にしているのだと思います。
仏教の場合は仏に近づこうとする事で人の道を外さない様に
しているのではないでしょうか?
神教も仏教も言葉や表現は違いますが同じ事を云っているのです。
(神)迷える子羊>(仏)凡夫、神様の愛>仏の慈悲と云う様に!
異口同音なのですがそれに気づかない哀れな信者達なのです(T_T)
tam
がしました