三島由紀夫の死が、死後何年たっても日本人の心から消え去らない理由の一つは、彼がとにかく、自分の死を賭けるものを持っていたということに対する憧憬ではないかと私は思う。(榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、昭和62年、p.203)
わたしは、三島由紀夫の最期を思うと、「命懸け」「不惜身命」などという言葉は軽々しく使ってはいけないような気がしてくる。そういう言葉は、自分はいつでも腹を切れるという覚悟がなければ言ってはいけないのではないだろうか。
話は飛ぶが、信仰もこれと同じで、「神を信じる」というのは、「いつでも殉教できる」という覚悟がなければ、そう簡単に口にしてはいけない言葉であるように思える。これは大袈裟な考え方かもしれないが、言葉の重みとはそういうものではないかと思うのである。