「人を信じ、世を信じ、神を信じよ」

 
これは大川隆法の著書にあった教えですが、今でもすきな言葉ではあります。
 
人を信じることは、世を信じ、神を信じることに通ずるでしょう。
 
世を信じることは、人を信じ、神を信じることに通ずるでしょう。
 
そして、神を信じることは、人を信じ、世を信じることでもあるでしょう。
 
信仰というものは、神、世、人を信じることによって、完成するものなのかもしれません。
 
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ひるがえって、最近の「幸福の科学」を見てみると、これとは違った様相を呈しているようです。
 
「人を信じ、世を信じ、神を信じよ」というよりも、「人を疑い、世を疑い、神を信じよ」という状態に陥っているのではないでしょうか。
 
熱心な信者ほど、人を疑い、世を疑う傾向が強く、「あの人は魔にやられてる」「あの宗教はまちがっている」「今の社会はだめだ。ほとんどの人が魔にやられてる」などと言ってばかりでしょう。
 
信仰が強くなるほど、疑も強まるというのはおかしなことです。清らかなものからは清らかなものが生まれるように、信頼からは信頼が生まれ、信仰からは信仰が生まれるはずです。信じるほどに〈疑〉が生まれるのはおかしいです。
 
神は愛であり、平和であり、信頼でしょう。それならば神とつながる信仰から生まれるのは、愛であり、平和であり、信頼のはずです。
 
もしも信仰によって、疑が生まれ、敵愾心が生まれ、高慢が生まれるとするならば、その信仰によってつながっている相手は神ではないかもしれません。
 
神仏を信じると称しながらも、人を疑い、世を疑う信仰形態に違和感を感じている信者さんには、この点をよく考えてみてほしいと思います。