絶えず理解を疑うことが、理解に近似する唯一の道です。
(亀井勝一郎『愛の無常について』(角川文庫)角川書店、昭和56年、p.97)

こんな言葉を聞いたことがある。
 
「悟ったというときには悟っていないのだ。悟っていないというときこそ、悟りに近付いているのだ」
 
もしこれに一理あるなら、こうもいえるかもしれない。
 
「信じたというときには信じ切れていないのだ。まだ信じ切れないというときこそ、真に信じようとしているのだ」
 
この考え方から行けば、懐疑を失えば自分はまだまだだという謙虚さをも失いかねないのであって、謙虚に精進し、悟りと信仰に近づいてゆくためにはどうしても懐疑が必要になるということかもしれないと思う。