「近思録」を読んでいたら、疑について次のように書かれていた。
何の疑問も生じないのは、ちゃんと学んでいないからです。ちゃんと学んでいれば、必ず何らかの疑問が生じるものです。実際にやってみて、なかなかうまくいかないこと、それが疑問となるべきことです。(第二巻 為学大要 百二)学ぶ人は、まず疑問点について分かることが必要です。(第三巻 格物窮理 十五)義理(物事の道理)について何か疑いが生じたならば、これまでの見解をさっさとすてて、新たに考えなおすことです。(第三巻 格物窮理 二十一)これまで疑問にも思わなかったことに対して疑問をもつようになれば、そのとき、学問は進歩しています。(第三巻 格物窮理 七十五)疑り深い人は、まだ何事も起きていないうちから、まず心のなかに疑おうとする気持ちを持っています。(第十二巻 改過及人心疵病 二十三)
* 引用はすべて、福田晃一訳解『近思録 -朱子学の素敵な入門書-』(明窓出版)から
どの言葉ももっともなものであると思う。
なんでもかんでも根拠もなしに疑うのはよろしくない。ただし、きちんとした根拠を持ち、道理にかなった疑問はよいことであり、進歩に通ずるということらしい。
〈疑〉について興味があるので、いろいろと読んだりしてるけど、この本に限らず、大体は上のような結論に落ち着くことが多いようではある。