*思うこと
言論の自由について、自分なりに思うところを書いてみたい。
*言論の自由
言論の自由と聞くと、いつも思い出す言葉がある。それはこういうものである。
・言論の自由とは、政府にとって都合の悪いことが言えることである
これを少し変化させると、こうなる。
・言論の自由とは、企業にとって都合の悪いことが言えることである
・言論の自由とは、宗教にとって都合の悪いことが言えることである
さらに変化させると、こうもできるかな。
・言論の自由とは、他人が、私にとって都合の悪いことを言えることである
方向性を変えれば、こうか。
・言論の自由とは、私が、相手にとって都合の悪いことを言えることである
自分としては、言論の自由とは、大体このようなものではないかと思う。
言論の自由とは、なかなかに厳しいものである。
*言論の自由の限界
上では、言論の自由とは、政府、企業、宗教など、相手方にとって都合の悪いことを言えることではないかと書いた。
しかし相手方にとって都合の悪いことを言えるといっても、誹謗中傷までもがよしとされるわけではないのはもちろんではある。
言論には、根拠を提示し、相手方の人権を尊重し、公益に合致すること等が必要であり、そうでない場合は権利の濫用ということになるのだろうと思う。
*言論の自由と道徳
言論の自由と道徳とは、非常に難しい関係にあるらしい。
たとえば、言論の自由によって、悪徳企業を告発し、倒産に追い込んだとすれば、多勢の消費者など社会全体にとっては益となるだろう。でも、悪徳企業に勤めていた社員にとっては迷惑な話かもしれない。
また、言論の自由によって、カルト宗教を批判、告発すれば、一般社会にとっては益となるが、信者にとっては不快でたまらないだろう。
このようなことを考えると、どうやら言論の自由は、公益を目的としているために、「人を不快にさせてはならない」「人の心を傷つけてはならない」などの道徳に反してしまう場合があるようではある。
これはつまり、言論の自由は、他者を不快にさせ、個人間の道徳に反したからといって、まちがっているとは断定できないということである。
*言論の自由の自己規制
言論は自由であるとはいっても、人は誰でも、「これは言ってもいいが、それは言ってはいけない」という判断をしているものである。
これによって、「これは言ってもいい」とすることは言い、「それは言ってはいけない」とすることは言わないという風に、自らの言論を規制しているのが通常である。
ただ、ときには、こういう自分の判断を、他者に押し付けようとする人がいる。自分が言ってはいけないと思うことは、他人にも言わせない、自分が言ってもいいと思うことは、他人にも言わせるという風に……。
言論の自由は、各人が各人の判断によって発言することだとすれば、自分の判断によって他人の発言をコントロールしようとすることは、あまりよいことではないように思う。
*言論の自由の場
言論は自由だとして、その次には言論活動はどこで行うかということが問題になる。
自分の意見を、いつ、どこで、どのように発表するかは、道徳、習慣、常識……などに従って、一定の節度をもってするのが理想である。
ただ現実には、何事も理想通りにはならないのだから難しい。
*権利と闘争
権利とは戦いとるものだといわれる。だとすれば、言論の自由と、言論の場とを確保するために戦うことは至極、当然のことではある。
もしかしたら、「権利とは戦いとるものだ」というと、ずいぶん、乱暴に聞こえるかもしれない。しかしこの場合の戦いとは、「自分の意見ははっきり主張し、相手に認めてもらう努力をしよう」というような意味合いである。
権利というものは、何もしなくても、永遠に保障されているものではなくて、保全の努力をしなければ奪われてしまうものなのだから、権利は主張し続けていかなければならないのである。
こういう風に考えると、言論の自由を主張する人があれば、それに批判をくわえる人がいる、言論の場を確保しようとする人があれば、それを阻止しようとする人がいるというのは、特に異常というわけではなく、当然のことなのだろう。
それぞれが、それぞれの権利を主張するのは当たり前なのだから、これに対して腹を立てても仕方がない。
*言論の自由と矛盾
最後になるけれど、言論の自由とはそもそも矛盾をはらんだものではないかと思う。
言論の自由によって、意見を言おうとするときは、「自分の意見は正しい」という強い信念が必要となる。
けれども、他者の言論の自由を認めようとする際には、「自分の意見は正しいとは限らない」という謙虚さが必要になるのである。
言論の自由のためには、「自分の意見は正しい」という傲慢さと、「自分の意見は正しいとは限らない」という謙虚さという相反するものが要るのだとすれば、つくづく言論の自由とは奥深いものだなあと思う。 〈了〉