神に対しては、ひたすら信じるべきであって、「あなたは本当に神ですか。もしそうであるならば、神であるという証明してください」という不信はよくないという考え方があります。けれども、仏典には、次のような記述があるようです。
セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人の相〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆ど具わっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(〈目ざめた人(ブッダ)〉であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相である。
そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰していない」と。そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両鼻孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、pp.122-123)
また、聖書には、復活したイエスと、その弟子たちの問答が、次のように書かれています。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカによる福音書24.38-43)
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20.24-29)
ここでイエスは、見て信じるより、見ないで信じる方がよいとしていますが、その一方で、弟子たちが信じられるように、自らすすんで証拠を見せておられます。これは釈迦が、セーラ・バラモンが信じられるように、自らすすんで仏である証拠を見せていることと共通しているように思います。
こういった文章を読むと、神に対しては、ひたすら信じるしかないとしても、直接に向き会い、対話ができる仏陀や救世主に対しては、率直に、真に仏陀、救世主であるかどうかの証明を求めてもよいのかもしれません。