二六六 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の〈道の人〉に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、――これがこよなき幸せである。(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、p.58)
三二五 長上を敬い、妬むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話を聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。(同上、p.69)
上を読み、「確かにその通りだ。同じ言葉でも、つい反発してしまう時と、素直に耳を傾けられる時がある。真理を学ぶには、それに適した時があるのだ」などと共感しました。けれども、二六六の註にはこうありました。
適当な時に理法についての教えを聞く――適当な時に仏教の教えを聞くという意味である。古代のインド人や現代の南アジアの人々は、陰暦の半月の第八日および第十五日に寺院に参詣して教えを聞くが、そのようなことをいったものである。現代の生活では、読書をしたり講演会に行ったりテレビで講話を聞くなどということがこれに当てはまるであろう。(同上、p.309)
これを読むと、どうやら私の解釈はズレてるようです。古典を読んでいると、こういうことがよくあるので面白いです。