「山中の難所を歩む猟師は、智慧に乏しく、心なき者であるのに、
時ならぬのに教えさとそうとする修行僧は、
遅鈍な者のように、わたしには思われます。
聞いたからとて、解りはしません。
眺めるけれども、見はしません。
ことわりを語ったからとて、愚者は事柄を理解しません。
眺めはするけれども、見はしません。
もしも〔その猟師をさとらすために〕十指に灯火の光明をたもつとしても、
かれはもののかたちを見ることはないでしょう。
カっサパよ。かれには見る眼がないからです。」
(『ブッダ 悪魔との対話―サンユッタ二カーヤⅡ―』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1986年、p.210)

これは第Ⅸ篇第三節にあるカッサパ姓の尊者に対する神の警告です。猟師がどうというよりも、世の中には、真理を理解しない者がいるということなのだろうなと想像します。
ちなみに、ショーペンハウアーは次のように書いています。 

その人その人の個性によって、各人にとって可能な幸福の度合いは前もって定められている。とりわけ人の精神力には限度があるために、高尚な楽しみを味わう能力がどの程度のものであるかははっきりきまっている。その人の精神力が貧弱であれば、外部からのあらゆる努力、人類がそして幸運がその人のために行ってきたすべてのことをもってしても、その人に平板な半分動物並みの楽しみや快感以上のものをもたらすことはできない。その人は感覚の喜びや、親密で明朗なマイホーム生活、低級な社交や俗悪な暇つぶしで満足するほかはない。
(ショーペンハウアー『ショーペンハウアー 孤独と人生』金森誠也訳、白水社、1970年、p.12)

現代の常識から行くと、昔の人は容赦ないなぁと思います。