一般の宗教では、教えからは絶対に離れてはならないという考え方があると思いますが、仏典には次のことばがあります。 

〔修行僧いわく、――〕
「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
いまやわたしは、離欲を達成したからには、
見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では
捨て去らねばならぬ、ということを、
立派な人々は説かれました。」
(『ブッダ 悪魔との対話―サンユッタ二カーヤⅡ―』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1986年、pp.217-218)

これについて註には、こうあります。 

……立派な人々は説かれました――この趣意は恐らく次のようなことであろう。〈離欲〉という目標を達成するまでは、聖典の教えを心にかけて学ばねばならない。しかし今やその目標を達成したのであるから、聖典を学ぶことにくよくよする必要はない。聖典を、または経文を、声をあげて読誦しないからとて、決して怠けているのではない、というのである。「世間諸聞見、無知悉放捨」(『雑阿含経』)。教えとは筏のようなもので、目的を達成したならば捨て去らねばならぬということは、原始仏教から『金剛経』などに至るまで一貫して説かれていることである。いわば、仏教の一つの特徴である。
(同上、pp.393-394)

たしかに、筏は、川を渡ったあとはその場において行くべきで、川を渡るのに役に立ったからといってずっと担いで行こうとするのはおかしなことではあります。でもだからといって、教えも筏と同じように、目的を達成したあとは捨て去るべきであるというのには驚きます。ここまで徹底した無執着はすごい。