もう何年も前のことになりますが、心を乱してはいけない、平静心を保たなければならないという宗教の教えに深く共感したため、ついそれに固執してしまっていた時期に、次の文章を読みました。
天気も晴れる日降る日がかわりがわり訪れた。碧郎の気分もよくなり悪くなりした。天気より碧郎の気分は早く動き、そして激しかった。少しずつ声が嗄れてきた。かすれた声で腹を立て、人を罵り、意地悪を云い、疑い、そして素直に優しいことも云った。多くしゃべるのが苦労になってきたかして、短いことばで突き刺すように云うのである。 [省略] 手の甲に皺が寄った。足は介添なしには曲げることもできなくなった。腹を立てても意地悪や皮肉を云っても、こんなにせつなくからだが衰えてきては、無理もないことだと思われた。げんが無抵抗になればなるほど、碧郎はつむじを曲げるかのようだった。「碧郎さんの持って生まれている、あらゆるいやなものを吐き尽くさせて、聴いてあげて、きれいに浄めてお見送りしてあげてください」と云った看護婦さんのことばが身にしみていた。(幸田文『おとうと』新潮社〈新潮文庫〉、平成7年、p.213)
はじめて、この文章を読んだ時には、涙がこぼれて仕方がなかったのですが、いま再読してもそれはかわりません。死期の迫っている者の怒りを受け止めてあげて、さらにはその心にある、あらゆるいやなものを吐きだしてもらって、きれいになってから逝かせてあげようとまでする……こういうやさしさのこもった文章を読むと、哀しいような、嬉しいような、救われたような心持ちがします。