『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
(『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経―』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2007年、p.62)

これは釈尊のことばとされるものですが、訳注を見ると、次のように記されています。 

ゴータマ・ブッダは、以下の文から見て明らかなように、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。「親鸞は弟子一人ももたず」という告白が、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの右の教えと何ら直接の連絡はないにもかかわらず、論理的には何かしらつながるものがある。
(同上、p.229)

釈尊は教団の指導者のつもりはなかったというのは、意外な気もしますが、自灯明、法灯明の教えから行けばそれが当然かもしれません。