仏説かどうかの判断方法として、仏典には次のように記されています。
尊師は次のように説いた。――八 「修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、――〈友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。――これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである〉と。修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取らるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである。それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)にも合致せず、戒律(の文句)にも一致しないときには、この結論に到達すべきである、――〈確かに、これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことである〉と。修行僧らよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。しかし、もしもその文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典(の文句)に合致し、戒律(の文句)に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである、――〈確かに、これはかの尊師の説かれたことばであり、この修行僧が正しく理解したことである)と。修行僧らよ、これが、第一の〈典拠への参照〉であるとうけたまわりなさい、(『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経―』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2007年、p.103)
要は、その教えが、経典や戒律と一致するかどうかで判断するということのようです。
私は、宗教家の著書を読み、説法を聴くときに、それらの内容が経典や戒律と一致するかどうかをしらべることなく、自分が感動しさえすれば「これは本物だ! 真理だ!」と即断してしまうところがあるので、注意したいと思います。