*ギロチン話が多い
結局、「無駄遣いをなくす」とか言うて、「事業仕分け」とか、いろいろやっとったけども、見せもんやね。まあ、ある種の公開ギロチンやな、ありゃ。「ここで、こんなに金を使っていますよ」というてみせて、それを委縮させようとして、公開ギロチンにしたね。
[省略]あんなのは、ギロチンを見せもんにしているようなもんやな。(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.45)
上は、松下幸之助の霊が、たとえ話として、ギロチンに言及したという設定であるけれども、大川隆法氏には自分名義の本でも、おなじくギロチンに触れているところがある。
私自身は、天皇制を廃止したり、天皇家の人たちをギロチンにかけたりするような血なまぐさいことは、好きではありません。あとで怨霊になると困るので、そういうことをしたいとは、まったく思いません。昔の〝日本方式〟で構わないと思うので、文化的象徴としての皇室は存在しても結構ですし、私は皇室を尊敬してもいます。(大川隆法『救世の法』幸福の科学出版、2011年、p.148)
松下幸之助の霊言でも、大川隆法氏本人の言葉でも、さして必要でもなさそうな時に、ギロチンの話が出てくるというのは奇妙な一致である。
それにしても、このような場合のたとえとして、ギロチンなどを持ち出すことは、腹立たしくてならないものがある。
*追記
他にも、ギロチンについて触れている部分を見つけたので、メモしておきたい。まずは、ルソー(霊)の発言という設定のものである。
例えば、革命のときに、「こいつを殺せ!」と誰かが叫び始めたら、大勢の人々が、いっせいに伝染病に罹ったようになって、冷静な心を失ってしまい、「ギロチンにかけろ!」と言うようになり、実際に、そうなってしまうことになる。(大川隆法『霊性と教育 ―公開霊言ルソー・カント・シュタイナー―』幸福の科学出版、2010年、p.54)
次は、カント(霊)の発言という設定である。
後世、「カント哲学の本質は、フランス革命において、国王の首をギロチン台ではねたように、神の首をギロチン台で切り落としたことにある」というように捉えられている向きはかなりある。(同上、p.90)
さらには、大川隆法本人名義の言葉もあった。
革命と名の付くものは数多くありますが、例えばフランス革命は〝ギロチン〟の山であり、あの血なまぐささには二百年たっても何とも言えないものがあります。(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.48)
大川隆法氏は、なぜ、こんなにもギロチンにこだわるのだろうか。不可解である。たまたまフランス革命か何かの本を読んで、ギロチンの恐ろしさが強く印象に残ったということだろうか。しかし、そうだとしても、2009年~2011年とけっこうな期間に渡って、ギロチンが脳裏から離れていないのは妙である。何かの本を読んだ影響は、ここまで長期間に渡るとも考えにくい。
大川隆法氏は、なぜ、こんなにもギロチンにこだわるのだろう? よくわからない。
*追記
現代の政治を見ると、テレビや新聞等では、首相や大臣が「辞めろ、辞めろ」と次々に責められ、実際に辞めていく人が数多くいます。これは、私の目には、彼らを〝ギロチン〟にかけているように見えてしかたがないのです。(大川隆法『創造の法』幸福の科学出版、2010年、p.140)
これは霊言ではなく、大川隆法氏本人の言葉となっているが、どうやら氏にとっては、大臣らに対する批判的報道は公開処刑のように見えているらしい。でも公開処刑はいろいろな方法があるだろうに、どうしてギロチンのような、もっとも残虐な処刑方法を想像するのだろうか。やっぱり、よくわからない。
ちなみに自分には、大臣らに対する批判的報道は、つるし上げには見えても、公開処刑とまでは思わない。ましてやギロチンを想像することもない。