ひさしぶりに、『パパラギ』を読み返してみた。大分前に知人から教えられて読んだことがあり、そのときは非常な衝撃と面白さを感じたものだけど、今、読み返してもやっぱり面白い。

その内容は一言で言えば、南の島に住む酋長ツイアビによる西洋文明評論ということになるのだろうけど、その表現、視点、発想などは独特のものであり、刺激的である。読み進めるうちに、自分が当然だと考えている事が、実はそうではないことに気付かされるのが楽しい。

たとえば、本文には次のような言葉がある。

若者が、娘を妻にしようと思っても、からだは見せてもらえない。だから、若者には、その娘が本当に娘かどうかさえわからない。ふたりの仲が進んだあとでも、せいぜい夜中か暗がりの中で、ときたま見せてもらえるだけだ。たとえ、その娘が、サモアのタオポウ(村の女神・娘たちの女王)のように美しく育っていたとしても、からだを包んでいて、絶対に姿を見せないから、だれもその美しさを楽しむことはできない。
(『パパラギ』岡崎照男訳、立風書房、1993年、p.18)

愛の神について、ヨーロッパ人に話してみるがよい――顔をしかめて苦笑いするだけだ。考え方が子供じみていると言って笑うのだ。ところが、ぴかぴか光るまるい形の金属か、大きい重たい紙を渡してみるがよい。――とたんに目は輝き、唇からはたっぷりよだれが垂れる。お金が彼の愛であり、金こそ彼の神様である。彼らすべての白人たちは、寝ているあいだもお金のことを考えている。
(同上、p.38)

たしかに私たちは、知ることの練習、パパラギの言葉を借りれば「考える」をたいしてしているわけではない。しかし、あまり考えないのが馬鹿なのか、それとも考え過ぎる人間が馬鹿なのか、それは疑問である。
(同上、p.106)

酋長ツイアビの言葉は、奇妙、滑稽に感じられることもあるが、それと同時にまさに正論だとも感じられるのだから不思議である。でもこの不思議に浸るのは不快ではなく、本当に心地良い。読書には癒し効果があるというけれど、この書を読んでいるとそのことを実感できるように思う。〈了〉