イザヤ・ベンダサン(山本七平)の『日本教徒』を読み返してみた。本書では、日本人キリシタンであったハビヤンは、表向きは棄教、転向を繰り返したように見えるが、その根底には一つの判断基準を持ち続ていたとして、その判断基準がいかなるものであるかを探っているのだけれど、これは何度読み返してもおもしろい。ハビヤンの内にある判断基準を探ることは、日本人および日本人である自分の内にある判断基準を探ることでもあるので。
仔細に見ていけば、彼は、脱『平家』=脱仏教以降は、キリシタンであったことも、儒者であったことも、絶えて一度もなく、彼には別の基準があり、彼は常にその基準を保持して、仏教・キリスト教・儒教から絶えず影響をうけながら、実はそれぞれを部分的に取捨選択していたことに気付くだろう。(『日本教徒』山本七平=訳編、角川書店[角川文庫]、昭和55年、p.32)
ハビヤンにおいては、宗教は、人間が「ナツウラの教へ」(日本教的自然法)通りに「現世安穏・後生善所」に生きるための「方法論」としてのみ存在理由がある。(同上、p.155)
彼を「棄教者」とか「転びキリシタン」とか「転向者」とか呼ぶのは誤りである。彼自身は少しも変わっていない。彼はその人生を仏教の僧侶としてはじめ、ついでキリシタンの修道士となり、おそらく最後には儒教的道教的(?)思想家として終わったと思われるが、この間の彼の態度はむしろ、真摯なる求道者のそれである。そしてその態度に明確に見られるのが一種の「個人主義」である。彼は、彼のいう意味の宗教乃至は思想と「自己」とを対等の関係におき、「ハビヤン個人」が、いずれの宗教乃至は思想を選択するのも自由だ、という態度をとった。すなわち彼の〝転向〟は常に自らの意思に基づく「選択」であって、ある思想を基準とした「転向」ではない。この点その態度は非常に〝近代的〟といえる。そしておそらく日本人における〝個〟の自覚は、常に「宗教・思想の自主的選択」いわば、「人が神を選択する」という彼の思想的遍歴と同じ形でなされているのであろう。(同上、p.155-156)
私事ながら、本書を知る前は、仏教、キリスト教、儒教関連の本や、自己啓発書などを読み散らすことに、なんとなしに罪悪感があったものだった。
いろいろ思想宗教の本を読み、共感できるところは受け入れるけれども、共感できないところは受け入れないというのは、自分勝手すぎるのではないかとか……。
一つの思想宗教を信じ、自分で納得できるところはもちろん、受け入れ難いところをも受け入れるようにすべきでないか、それができないのはエゴが強すぎるのではないか、もっと謙虚にならなければならないのではないかとか……。
と、こんな風に悩んでいた。
でも、本書を読んではじめて、自分のしていることは、さほど特異なことではないと気付かされた。いろいろな思想・宗教の中から、自分の内にある日本的基準に照らし合わせつつ、自己形成などに役立つ部分は受け入れる一方で、自己形成に役立ちそうもない部分、天下泰平を乱しそうな部分などは受け入れないという行き方は、いかにも日本的な行き方であるというだけのことで、それ自体が別に悪いことではないと。
ほんと、本書を読むことで、自分は日本教的な価値観に従っていることを自覚することができてよかったなあと思う。もし本書を読んでなければ、いまだに特定の思想宗教の型に、自分をはめ込むことができないことに引け目を感じ、悩んでいたかもしれない。この点、本書は、自分にとっては運命を変えた一冊と呼べるものだ。
ちなみに最近、貝原益軒の著作を読んだけれど、宇宙論的なところは別として、人生論的な部分はとても共感できた。「これは座右の書にしよう。なんで今まで読まなかったんだろう。もったいないことをした」というくらいに感動できた。
そうして本書を再読したら、巻末で、日本教の聖書として、貝原益軒の著作が挙げられていたという(笑)。貝原益軒の著作について、そのような記述があったとは全然覚えてないという記憶力の無さが情けない。まあそれはそれとして、自分はやっぱ日本教徒なんだなあと改めて思った瞬間でした。