*議論がはじまった?
幸福の科学ブログ村で、幸福の科学信者さんたちが、自由人(統一教会信者)さんを批判をしています。

・家庭連合の信者が幸福を科学すると|タイで出版された「幸福の科学・書籍」に仏教界からクレーム

◇やすらぎのガンブロ|文鮮明とカンダハール 統一教会(家庭連合)をきりすてる
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/430442813.html
◇アマミちゃんのお気楽にもほどがある日々|文鮮明と統一教会(家庭連合)の問題点
http://ameblo.jp/amamikyo77/entry-12100953956.html
◇HSガンちゃんとレオのブログ|【レオ】仏陀再誕のリバティ記事に万歳!!
http://gunleo.seesaa.net/article/430477730.html
◇HSガンちゃんとレオのブログ|【レオ】本当のキリストの再臨と、偽キリスト&イエスさまを裁く者たち
http://gunleo.seesaa.net/article/430479404.html
◇幸福の科学 呑気会員ごくたま語り|再掲載 「家庭連合(統一教会)の恐ろしい手口について、一言二言」
http://ameblo.jp/dev7321maii/entry-12101219431.html
◇HSガンちゃんとレオのブログ|【レオ】キリストの幸福論を読んで
http://gunleo.seesaa.net/article/430504222.html


*押し寄せる反論!
はじめは、自由人さんとガンさんの一対一の対決かと思ってましたが、今は自由人VSガンレオグループという構図になってきてるみたいです。
これはたまたまこうなっただけでしょうか。それともガンレオグループではお互いに連絡を取り合い、共同作戦をしてるのでしょうか。どうなんだろう? ぽん吉さんはガンレオさんたちは共同して行動を起こしてると告発してたので気になります。
もっともphoenixさんは信者それぞれが単独行動してるという見解のようです。

断って置きますが、話し合って反論している訳ではありませんよ。 皆さんそれぞれが、【不快】に思っているのですよ! 
傍から見てると、ガンレオさんたちと、phoenixさんとは少し距離があるように見えますから、phoenixさんが彼らとは別行動しているというのは納得できます。でもphoenixさん以外の人たちはどうなんだろうと思います。


*アンチブログの反応
ちなみに、最近のアンチブログでも、統一教会のことは記事になってます。

・家庭連合の信者が幸福を科学すると|家庭を基盤としての団体とは?

●すいふとのブログ 2|家庭連合って…
http://swift2012.blog.fc2.com/blog-entry-92.html

二つの記事が関連があるかどうかは判然としませんが、信者ブログでは、大川隆法は仏陀かどうか、文鮮明は救世主かどうかが論点になっているのに対して、アンチブログでは、カルトの改称問題が論点になってるところがおもしろいです。


*自由人さんの記事内容
話を戻します。自由人さんの記事には、およそ三つの柱があるようです。
①タイの仏教界、さらにはムスリム、クリスチャンらから大川隆法に対して批判的な声が上がっているというニュース紹介
②これらの批判に対して、大川隆法はどう対処するかという興味
③文鮮明は救世主だという信仰告白


*信者さんの反論
これに対して、信者さんは、次のように反論してるみたいです。
①大川隆法は仏陀であり、このことは多くの人々に受けいれられている。一部の心得違いの者が反発してるだけである
②無回答? (①の問題を認めないなら②の興味は生じないのだから無回答も当然か)
③文鮮明は救世主ではない。統一教会は正しい宗教とは言えない


*全体的な印象
自由人さんはいつも通り落ち着いた文章ですが、信者さん側は気持ちが高ぶってるようです。自分の信仰の根幹にかかわることであれば、そんな風になるのも仕方ないことかもしれません。でも宗教を信じる者であれば、他者の信仰にもう少し配慮してもいいんじゃないかという気はします。


*具体例
これは酷いと思ったところを貼ってみます。

小乗仏教の方では、仏陀は解脱して涅槃にいったのだから、もう二度とこの世には生まれ変わってこない。という考えが、かなりメジャーなようです。これをもって、総裁先生が仏陀の再誕であることを否定する人間が、ときどきいます。信者はそんな下らない理屈には惑わされないけれど、再誕の仏陀を信じたがらない人は、2000年以上も前の古い文献の記述や、解説書でもって、仏陀の再誕はありえない、と言い張るんですよねー。
仏陀は二度と生まれ変わらないというのも一つの信仰だろうし、人が真面目に信じていることに対して「下らない理屈には惑わさ」れているというのは、いかがなものかと思います。

これまた批判してくるわりには、じゃあその人が、その小乗仏典、大乗仏典を日夜命がけで実習し、修行しているかといえば、そんなことはしてやいないのです。したがって仏道修行者として、一人前でもない分際で、そういうご都合主義の引用をして、批判のための批判をして粋がっている。
おそらくはHS批判者の中にも、本物の修行者もいるでしょう。十把一絡げに、HSを批判する者は、未熟者であると決めつけるような言い方はだめでしょう。

『仏陀再誕』を否定するものは仏教ではない
ものすごい過激な記事タイトルです。タイトルだから、あえて注目を浴びるように、過激なものにしているのでしょうか。でもそれにしたって、仏陀再誕を否定したら仏教ではないというのは言い過ぎです。相手方の神経を逆なでするような言い方は慎むべきです。

仏陀が再誕するなら、かつて自らが説いた教えに制約されることなく現代人のために新しい法を説くはずだ。
普遍の真理には古いも、新しいもないです。仏陀の説いた教えが普遍の真理であったならば、仮に仏陀が再誕したとしても、過去とまったく同じ教えを説くでしょう。
にもかかわらず、再誕の仏陀は、過去の教えに制約されずに新しい教えを説くというのは、過去に説かれた教えは、普遍の真理ではなかったと言っているのと同じです。これは仏陀に対する冒涜だし、仏陀は普遍の真理を説いたと信じる者に対する侮辱になるかと思います
以上、いくつかの例を挙げました。これらの言葉は、仏教を本当には信じていない批判者に向けた言葉ならまだしも、敬虔な仏教徒に向けた言葉としたら、いくらなんでも酷過ぎます。お詫びが必要と思います。


*疑問に思ったところ
次に疑問に思ったところを書いてみます。

戒律重視はよいが、その考えが半ば「戒律さえ守ればよい」という免罪符になっていること、また禁欲させられた反動が生じることから、それが社会のモラルを引き下げているのではないかと指摘されている。
これは誰が指摘しているのでしょうか。具体的に示してもらえたらと思います。
というのも、たとえばHSで「トルストイが言った」と言う場合、実際にはトルストイ(実物)ではなくて、トルストイ(霊)が大川隆法総裁に口を借りて言ったということだったりするからです。
だから、HSで「~と指摘されている」「~と言われている」という場合、実物の言葉なのか、霊の言葉なのかを確認しないわけにはいかないのです。
ついでに言うと、今度の議論でも、信者さんの文章で似たような問題はありました。

モルモン教や家庭連合(統一教会)の教祖による<キリスト詐称>は問題外としても、宗教とは関係ない進化論者や唯物主義者の多くが、イエスの再誕を名乗って恥じない。
これだけでは、イエスの再誕を名乗って恥じない進化論者や唯物主義者とは誰のことなのか、よくわかりません。だいち誰かの生まれ変わりを主張する唯物主義者というのは変です。生まれ変わりを主張したら、輪廻転生を認めていることだし、それは唯物主義者ではないでしょう。
多分ですけど、イエスの再誕を自称する唯物主義者というのは、実物ではなく、霊言のことをいっているのではないでしょうか。唯物主義者(霊)に語らせると、その多くがイエスを自称するということでしょうか。どうでしょう?
HSでは、霊言は真実だと信じられているので、霊の発言と、実物の発言とを区別しないみたいですけど、これは霊言を信じてない者からすると、すごく話がややこしくなるので困ります。
次はリバティ記事に戻ります。URLは上に同じなので省略しときます。

素朴な宗教的感情からしても、やはり「仏陀となったならば、強制的な迷いの転生輪廻からは解放される。しかし、衆生救済のため、自らの意志によって再誕することはありえる」と解釈するのが筋だろう。
一切は苦である→輪廻は苦である→輪廻から解脱したらもう生まれないという思考は、ごく自然な流れであると思います。
また、消滅は苦であるが、生は苦ではない→永遠に生きていたい→解脱しても永遠に生き、輪廻を続けたいというのも、ごく自然な流れです。
結局のところ、解脱して仏陀になったらどうなるかというのは、その者が一切は苦であると悟っているか否かによって信じる内容が違ってきているということなのでしょう。一切は苦であると受け止めることができるなら解脱したら戻ってこないと信じることができるし、生は楽であると感じているなら、解脱しても生に戻ることができると信じないではいられないだろうと……。

パーリ仏典は仏陀の直説そのままではない
部派仏教のこうした合理主義的な思想が、釈尊の教えの記録であるはずの経典の内容に混入したとしても不思議ではない。
保守的な人々が「仏陀は再誕せず」を強調した可能性も十分考えられる。
パーリ仏典も後世に作成されたという点では、大乗仏教の諸経典と同じであり、その意味での限界は認める必要がある。
「不思議ではない」「可能性も十分考えられる」「必要がある」というのは、決定的な証拠なしに、自分に有利な想像をしているだけではないでしょうか。「パーリ仏典は仏陀の直説そのままではない」としても、現在確認できる資料の中では、もっとも仏陀の教えに近いものであろうことは否定できないのだろうし、そうであれば確かな証拠もなしに、仏陀は「仏陀再誕」を説いたというのは無理です。
もちろん、「仏陀再誕」を信じることは、個人の自由ではあります。ただもっとも仏陀の直説に近いとされるパーリ仏典の中に「仏陀再誕」という思想が明確な形で記されていないなら、パーリ仏典を信じる者に「仏陀再誕」は仏陀の直説であったと認めさせることは難しいでしょう。

仏教に限らず、世界の宗教には、「聖者の再誕」という思想がしばしば見られる。
「聖なる存在が再び生まれ変わる」という思想は宗教的にはポピュラーなものだ。
多くの人々にとって、聖なる存在と永遠の命は憧れでしょう。そうであれば、どこかに永遠の命を持つ聖なる者がいるとか、その者が自分を救いに来てくれると想像するのは、ごく自然なことです。
ただ多くの人々が同じ想像を共有したからといって、それが現実であるかどうかは別問題ではあります。

大川総裁は、2011年、国民の多くが上座部仏教を信じるスリランカで説法を行った。数十社のマスコミが取材し、テレビ放送もされたこの説法の後、参加者の7割に当たる1万人近くの人がその場で幸福の科学に入会。
ここでいう入会とは具体的にはどういう手続きだったのでしょうか。大川隆法を仏陀と信じた上で、三宝帰依を誓ったということでしょうか。それともかつての誌友会員のように月刊誌購読を契約したということでしょうか。
1万人近くがその場で入会ということは、時間的にみて三帰誓願式が行われたわけではないでしょう。入場前に入会申込書を配布して、帰りに回収ということでしょうか。入会手続きの内容がわからないと、一万人近くの人が、大川隆法を仏陀と認めたのかどうか、よくわからないので何ともコメントしようがないなあと思います。
個人的には、この説法を聞いて入会した人たちが、タイで反発された書籍を読んだとしたら、どんな反応を示すか興味あるところです。


*仏陀とは?
以下には、記事を読みながら、心に浮かんだことを書いてみます。まず「仏陀とは?」ということですけど、私は第一に、仏陀と聞くと人格完成者をイメージします。
どんな立派な教えを説いても、どんなにたくさん信者がいても、人格的に問題があるなら、それは仏陀ではないだろうと思うのです。違う言い方をすれば、信者がいなくても、立派なことは言わなくても、人格が優れているならば、悟った人だと思うということです。


*救世主とは?
福音書のイメージだと、愛深く、毅然とした態度を保ち、さまざまな奇蹟を起こす偉大な存在というものでしょう。
でも、遠藤周作の本を読むと、イエスは愛の深い人だったけれども、奇跡を起こしたりはできず、無力な人であったという見方をしているようです。イエスは無力だったけれども、本当に心から人を愛したのだったと……。
私は最近は、こういうイエス観に共感しています。


*奇蹟
こういってはなんですけど、偉大な存在が、自分より弱い者を愛し、奇跡を起こすというのは、ある意味、想定内です。
でも、特別な力を持たない無力な人が、虐げられた者たちを愛し続け、無実の罪で磔にされても、裏切者たちのために「神よ、彼らを許したまえ」と祈ったというのは、まさに想定外であり、これこそ本当の奇跡であるように思えます。
こう考えると、本当の奇蹟は、無力だからこそ起こせるものであり、イエスは無力だったからこそ救世主だったと言えるのかもしれませn。これは、まっとうなキリスト教からは外れるかもしれないけれども、個人的には時々そんなことをリアルに感じます。


*イエス再臨
病んでいる人に対して、病めるキリストという見方があるようですけど、その感覚は自分にはよくわかりません。ただ人と人とが仲良くしているところ、思いやりが表現された瞬間などには、暖かい心持ちはするし、神様が見守ってくれているという感じはします。だから、神は愛であり、愛のあるところに神はいるという感覚は少し分かるように思います。


*宗教的感動
宗教を信じるとき、「これは素晴らしい」「これは本物だ」というような感動、直感があると思います。これは本人にとっては、とてもリアルな感覚でしょう。
でも、宗教的感動は、必ずしも正しいとは限らないのだから困ったものです。
また宗教的感動は、信仰を同じくする者でさえ共有できなかったりするものです。それならば信仰を同じくしない者に対して、自分と同じ宗教的感動を持つことを要求したとしても詮無いことです。


*酩酊体質
司馬遼太郎の講演録に、思想的な酩酊体質について語ったものがあったかと思います。思想、宗教などに心酔し、酔える人もいれば、そうでない人もいるというような内容だったかと。
酒を飲めない人に、飲むことを強要するのはだめだし、酒を飲めないからといって見下すのもおかしなことです。
でも、宗教的な酩酊体質の人の中には、これを理解しない人がいるのだから困ったものです。


*退転者
遠藤周作の「沈黙」には、何度も踏み絵をふんでしまう人物がでてきます。キリシタンになって捕まる→踏み絵を踏んで逃亡→またキリシタンになって捕まる→踏み絵を踏んで逃亡→またキリシタンになって……ということを繰り返す人物です。
この人物は、はじめのうちは卑怯者でダメなやつという印象ですが、小説を読み進むうちに、ひょっとしたら、こういう人こそ救われるのではあるまいか、こういう人のためにこそイエスは存在するのではあるまいかと考えさせる構成になっていたかと思います。
退転しなかった者は、自分は退転しなかったことを誇りに思い、その高慢さゆえにかえって救いから遠ざかるかもしれないけど、退転者は良心の呵責で自己を責めるがゆえに、より切実に神を求め、それによって救いを得られることもあるかもしれません。
「沈黙」は随分と前に読んだ切りですけど、退転者こそ救われるという場合もありえるんだなあと思いながら読んだものでした。


*正しいから救われる?
私は、善因善果、悪因悪果をよしとする感覚を持ってます。そうならないのは不公平だと感じます。だから、ヨブ記、放蕩息子のたとえには、反発したものでした。
でも最近は、正しいからといって救われるとか、まちがっているから救われないとは必ずしも言えないのかなあという気がしてきています。救う、救わないは神様が決めることであって、その決定は必ずしも因果応報に沿っているとは限らないのかもしれません。
ヨブ記、放蕩息子のたとえを知ってから、もう大分経つのでそういう考え方にも段々と慣れてきたのかなあ。


*とりあえずここまで
ふう。長々と書いて来ましたが、ここいらで筆をおきます。ながーい文章ですけど、最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。〈了〉 





◇◆ 追記 20151202 ◆◇


*新記事
ブログ村を見たら、新記事が公開されてました。

◇アマミちゃんのお気楽にもほどがある日々|カテゴリー違いのブロガー「家庭連合の信者が幸福を科学すると」を運営に通報お願いします
http://ameblo.jp/amamikyo77/entry-12101698118.html
◇やすらぎのガンブロ|【再掲】イエス様を汚す統一教会 幸福の科学の教えこそ人類の希望
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/430567883.html
・統一教会の信者が幸福の科学を見てみた|幸福の科学の信者が統一教会を批判することがなぜ滑稽なのか
http://lookinghappyscience.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
◇HSガンちゃんとレオのブログ|【レオ】精神の愛を語るイエスさまと、血がどうのこうのと肉体にこだわる偽メシアたち
http://gunleo.seesaa.net/article/430581209.html


*呼びかけ
自由人批判は、信者個々の判断によるのか、それとも共同で行っているのか分かりませんでしたが、アマミさんの呼び掛けを見ると、これまではともかく、今後は共同で行うつもりのようです。


*幸福の科学(信者)カテゴリ
同じくアマミさんの記事からすると、「幸福の科学カテゴリ」は「幸福の科学(信者)カテゴリ」であるという解釈のようです。信者以外のブログに対して、カテゴリーエラーだと強く批判する理由がようやく分かりました。


*ゆるい認識
ちなみに私は、「幸福の科学カテゴリ」は、幸福の科学に関するブログの集まるところだとゆるく解釈してました。具体的に書けばこんな感じ。

・信者かどうか、肯定的か否定的かに関係なく、幸福の科学に関する記事を書いてるブログが集まるところ
・ただし、ガッツリ批判するのであれば、「幸福の科学批判告発カテゴリ」があるので、そちらに移動するのがよい
・信者かどうかに関わらず、幸福の科学を肯定することも批判することもあるのであれば、「幸福の科学カテゴリ」「幸福の科学批判告発カテゴリ」の二つに登録してもおかしくない
・自由人さんは、ガッツリ批判をしてるというほどでもないし、「幸福の科学カテゴリ」「幸福の科学批判告発カテゴリ」の二つに登録していても、さほど違和感はない


*運営者の判断は?
アマミさんは、自由人さんのブログをカテゴリエラーとして運営者に通報するようですし、運営者はどのような判断をするのでしょうか。この判断によって、「幸福の科学カテゴリ」は、実質的には「幸福の科学(信者)カテゴリ」であるのかどうかはっきりしそうです。


*理解できる
ギャラクシーさんの意見は理解できるように思います。というか、幸福の科学が他を批判するとブーメランになっちゃうというのは、わりとよく指摘されていることです。またそういうことを指摘すると、HS信者は反省するより、余計に強く反発してくるというのも、よくあるパターンではあります。


*キリスト教と血
イエスは最後の晩餐で、パンとブドウの飲み物を、私の体であり血であるとして、弟子たちに食べさせたといいます。そしてこれはキリスト教ではとても重要な儀式になっているといいます。
また、とあるキリスト教系の団体は、血は食べてはいけないという律法を、輸血してはいけないと解釈して、輸血を拒否していたとも……。
小説の話ですけど、スティーヴン・キングの「呪われた町」には、吸血鬼が、聖体拝領だといって、自分の血を神父に飲ませる場面があります。その結果、神父は汚れてしまって、教会に入れなくなる……。
統一教会の教義は全然知りませんが、血に関する教義があるのであれば、こういった宗教文化を背景にしたものなのでしょうか。
キリスト教と血には、日本的宗教感覚ではよく分からない関連がありそうです。


*原罪
原罪についてですが、以前、キリスト教系の本で、原罪とは正しいことをできないことだと説明しているのを読んだ記憶があります。人は正しいことをしたいと思ってもそれができない、どんなに努力しても独力では正しいことはできない、これが原罪である、だから人が救われるかどうかは行いではなく信仰によるのだ、と。


*幸福の科学の考え方
一方、幸福の科学の人間観、救済論は次のようなものでしょう。
人には仏性があり、本質的には神仏と等しいのであり、正しいことをすることができる、したがって人が救われるためには、自らの心と行いを正しくすることが必要である、と。
幸福の科学とキリスト教を比べると、どちらが正しいとか、優れているとかいう前に、まったく正反対で、相容れない考え方だなあと思います。
ちなみに自分の場合、若いころは幸福の科学の考え方に共感してましたが、自分の至らなさに気付かされるうちに、キリスト教的な考え方に救いを感じるようになってきています。ただ聖書を読むと、自分の宗教感覚にとっては異質に感じるところも多く、なかなかすべてに共感することはできないのだけど。


*リバティ記事を読みなおす
昨日は細かい部分が気になったけど、改めて読み直すと、大きな流れも気になるなあと思いました。その流れを要約するとこんな感じかな。

・我々は仏陀再誕を信じている
・しかしパーリ仏典は仏陀再誕を明言していない
・これはパーリ仏典がまちがっているということだ。仏陀の教えを正しく伝えてないのだ
・大乗仏典その他を調べると、解釈次第によっては聖者の再来、仏陀再誕を期待することはできなくもない
・したがって仏陀再誕を信じるのは正しい


*いっそのこと
思うに、仏陀再誕は仏陀の教えだと強弁しようとするから、上のように変な流れになってしまうのではないでしょうか。それならいっそ次のようにした方がスッキリしてよさそうです。
「幸福の科学は仏教信仰ではなく、エルカンターレ信仰である。エルカンターレは仏陀再誕を説いている。エルカンターレの教えは、仏陀の教えを内包しつつも、それを超えるものだ。」
こういう主張が、信者以外に説得力を持つかどうかは微妙ではありますが、少なくとも、仏陀が仏陀再誕を説いたとか、その根拠が仏典にあると主張するより、ずっとスッキリしてます。


*誤解の発生
想像するに、大川隆法は仏陀の生まれ変わりだと聞くと、教団外の人はこう考えるのではないでしょうか。

・大川隆法=仏陀
・大川隆法の教え=仏陀の教え

だから外の人たちは、この形が成り立たないことをもって、大川隆法は仏陀の生まれ変わりではないと結論付けるのでしょう。
そしてHSは、これを受けて、「大川隆法=仏陀」「大川隆法の教え=仏陀の教え」であることを証明しようと無茶をする。
これって何かズレてないですか。


*HSの本音?
HSの本音は

・大川隆法=仏陀
・大川隆法の教え=仏陀の教え

ではなくて、

・大川隆法≧仏陀
・大川隆法の教え≧仏陀の教え

ではありませんか。言葉で言えば、こうですか。
「天上界にエルカンターレという至高の存在があり、その一部が地に下りて仏陀として生きた。そして今回はその本体が大川隆法として地に下りている。したがって、エルカンターレ本体の大川隆法と、その一部の仏陀とではおのずと違いがある。この意味で、大川隆法は仏陀の生まれ変わりであると同時に、それ以上の存在であるともいえるのだ」
もしHSが、このような信仰を持っているなら、「大川隆法=仏陀」「大川隆法の教え=仏陀の教え」であることを証明しようとするより、「大川隆法≧仏陀」「大川隆法の教え≧仏陀の教え」という信仰を訴えた方がいいのではないでしょうか。


*信仰告白
HSでは、信仰告白は奨励されているでしょう。それなら、「大川隆法総裁先生は、エルカンターレであり、根本仏であり、主である。主が仏陀再誕を宣言なさっておられるのだから、それは正しいのである。私たちはそのように信じている」と宣言したらいいです。
パーリ仏典はどうだ、大乗仏典はこうだ、各地の伝説ではこうだといったところで、実際には仏典や、各地の伝説を信じてるわけではないのでしょう。信じてないものを根拠にしてああだこうだ言っても仕方ないです。それよりもっと率直に、「大川隆法総裁先生は主である。主の御言葉は、仏典や聖書よりも権威があり、正しいのです」と言ったらいいのです。
信者さんの発言を見てると、たまにこの類のものがあるけど、それに比べたらリバティの記事は歯切れが悪いです。エルカンターレ信仰をもっと明確に打ち出したらいいのにと思います。その方が潔いし、正直だと思います。


*それにしても
こうして言葉にしてみると、大川隆法を仏陀だとか、主だとか、根本仏だとか信じることは、トンデモないことだなあと改めて思い知らされます。
信者さんにはこういう信仰を公けにできるかどうか、それをしたらどのような反応がかえって来るかをみて、自分の信仰はいったいどういうものであるか考えてみてほしいなあと思います。


*自由人さん、退場
2ちゃんねる統合スレで、天道さんが幸福の科学カテゴリから自由さんのブログが消えてることを指摘してました。確認してみると、たしかに見当たらないです。通報を受けた運営者による強制退場か、それとも自主的退場なのかは判然としないですが、雰囲気からすると、「幸福の科学カテゴリ」は、「幸福の科学(信者)カテゴリ」であるというアマミさんの見方が正解のようです。





◇◆ 追記20151203 ◆◇


*聖酒に入っていたもの
アマミさんの記事に貼ってあったブログを見てみました。

・ちゃぬの裏韓国日記|【み言葉】聖酒にはメシア(文教祖)の精子が入っています

赤字の部分をざっと読んだ感じだと、どうも精液混入というのは、何かの象徴的比喩的表現ではなくて、事実あったことのようです。うーん。なんかこういうのは話を読んだだけで気持ちが悪くなってくる……。
ガンレオさんの統一教会批判を読んでいて、「言葉通りに受け取りすぎじゃないか? 楽園追放とか、血がどうこういうのは象徴的、比喩的なこととして解釈すべきじゃないか」と思ったりしたけど、精液混入が事実そのままだったとすれば、楽園追放とか血がどうこういうのも字句通り解釈した上で批判しても間違いではなさそうです。


*カルト的な考え方
そういえば、幸福の科学でも、教祖の言葉はそのまま事実と受け止められているのでした。予言、霊言、過去世の話、人類創造、宇宙の歴史、宇宙人の話、霊界の話……教祖がどんなに非常識なことをしゃべっても、それはそのまま事実であると信者は受け止めてる。様々な祈願、1000万円で菩薩として表彰、10万円で過去の罪が消える儀式、エルカンターレファイト……そういったものも、象徴的な儀礼、心の慰めを得るための方便とはされず、実際の効果があると信じられてる。
カルトというのは、どんなにこの世離れした教義も、字句通りに解釈するものなのでしょうか。いや、字句通りにしか解釈できないからカルトなのかな。
幸福の科学の信者同士の議論を読んでいて、教条主義的、原理主義的すぎるなあという感想を持ったりしてたけど、信者たちに教条主義的でも原理主義的でもない、もっと柔軟な態度を期待するのは無理なのかなあ。


*正義は我にあり!
エルバカさんの書き込みを見て、HSブログ村にもこういうタイプはいるなあと思いました。
「相手にわかってもらおう!」ゆう発想やのおて、 「相手を屈服させて、従わせよう!」がデフォルトみたいだす。
こないな態度ではとてもとても付き合えんテ思おた次第だす。 大川隆法も、ヤフー智慧袋信者はんらも同んなじ態度ですさかい、 どっかに何らかの共通する原因があるんやテ思うんですわ。 
自分は正義、相手は悪と思い込んでるから、そんな風になるのかなあ。
まあ大抵の人も自分は正しいと信じてるもんだけど、同時に至らぬところがあることも認め、自分は絶対的な正義を体現してるとまでは思わないもんです。
でも信者さんの中には、自分の落ち度は少しも認めず、絶対正義の立場から相手を糾弾する人が少なくない。こういう思考は、ほんと謎です。内省能力が不足してるのか、自分に自信がないから自分の非を認めることができないのか……どうもよくわからないです。





◇◆ 追記20151204 ◆◇


*カテゴリ変更
自由人さんは、幸福の科学カテゴリから移動することにしたようです。(以下は行を詰めてコピペしてます)
私はもともとアンチではなかったのですが、 いつのまにかアンチになっていたようです。 第3者ですから、客観的な立場で正直な感想を書いていますが、 不快な思いをさせていたら、どうぞスルーして下さい。 おっしゃる通り、幸福の科学カテゴリーからは出ることにします。 


*一般人目線からの意見だった?
同じコメント欄に、エル・バカターレさんが書き込みしてます。
わては統一協会はキライでんが、 自由人はんは公平な目を持っとるますんで好きなんだす。 なんかイロイロあるんかも知れまへんが、 平常心で行っておくれやす。
私もエルバカさんと大体同じ印象です。自由人さんは幸福の科学を邪教とみなすとか、斬りまくるとかいうよりは、わりと一般的常識的な立場で発言してたように思います。
最近の記事では、祖父母殺害事件やタイ仏教界からのクレームについて触れてるけど、それによって幸福の科学を糾弾するというよりも、こうした状況に対して幸福の科学はどのように対応するのか注目してるという辺りで止めてます。『UFO学園の秘密』については、ポスターを見た子供が興味を示したが近隣で上映してるところがないので残念というニュアンス。これだったら、アンチというほどじゃないです。
信者さんからしたら、ちょっとでも批判的な雰囲気を感じればアンチ認定したくなるのでしょうか。でも、ぶっちゃけた話をすれば、一般的な目線に立って幸福の科学を見た場合、自己啓発っぽい教えは肯定的に受け止められたとしても、それ以外の部分には批判的にならざるを得ないものです。教祖崇拝(生き神様信仰?)、過去世話、霊界話、守護霊霊言、英語ベラベラ祈願みたいな風変りな祈願、訴訟の多さ等々、こういうことは、一般人が賛同することは殆どないでしょう。
この点からゆくと、自由人さんは幸福の科学のことを書く時には、極めて抑制的な態度を保ってたと思います。信者さんにもこの辺りのことを理解してもらえたらよかったのになあと思います。


*素朴な疑問(ボタンの掛け違い?
ところで、今回のことはいきなり抗議、糾弾からはじまったように見えますが、その前段階で話し合いはもたれなかったのでしょうか。
傍から見てると、自由人さんは他人の意見を聞く人みたいです。それだったら抗議、糾弾する前に、次のような話しをしてもよかったかも。
「自由人さん、ここは『批判・告発カテゴリ』ではなく、信者が集まるカテゴリですから、たまにはもうちょっと肯定的な記事も書いてください。いろいろ難しいこともあるかもしれませんが、カテゴリの雰囲気を察してください。お願いします」
自由人さんは案外、「わかりました」と言って、幸福の科学のよいところを見つけて記事にしてくれたかもしれません。
まあ、いまさら言っても詮無いことですけど、そんな風に思います。





◇◆ 追記20151205 ◆◇


*強制移動ではなかった?
ギャラクシーさんのブログは依然として、幸福の科学カテゴリに留まってます。自由人さんより、ずっとアンチ度は高いブログですけど、信者から通報されてないのかな。それとも通報されてもそのままでいる?

・統一教会の信者が幸福の科学を見てみた

自由人さんは、通報され、強制移動させられたとばかり思ってたけど、ひょっとしたら自主的にカテゴリ移動をしただけだったのかな。よくわからん。


*新記事
すいふとさんが騒動に関連した記事を発表してました。

●すいふとのブログ 2|本音

正論と思います。すごく、きちんとしてる。自分はちょっと自由人さん寄りになりすぎてたようです。