三浦綾子さんの本を読んでたら、次の一文を見つけた。
神の救いというものは、万人に与えられていると私は思う。立派な人間になってからでなければ救われないものならば、誰ひとり救われる者はいない。神の愛はもっと深く、もっと広いのである。(三浦綾子『雪のアルバム』小学館、昭和61年12月20日初版第1刷、p.205)
この通りであったら、有り難いなあと思う。自分はとてもじゃないけど、立派な人間にはなれないと思うので。
たとえば、悪口は言わないというのは、すごく基本的な道徳だ。でも自分はこれさえもちゃんと守れない。馬鹿、ぼんくらという言葉はしょっちゅう口から出てしまう。口から出すのは我慢できたとしても、心の中ではもっと酷いことを言ってしまってる。
怠けることなく、精進するというのも、基本的な事だ。でも自分は、根がどこまでもぐうたらにできているのか、どうしても怠けてしまう。用が無ければいつまでもベッドから出ないし、一日一章は聖書を読もうと自分で決めてもそれを続けることはできない。
下半身関連もだめだ。買春とか不倫とかはしないけど、心の中で姦淫をした者は、実際に姦淫をしたのと同じだと言われたら、お手上げだ。心の中でスケベなことを考えないなんて、自分にはとてもじゃないができそうもない。
きわめつけは、上のようなダメなところを、本気でなおそうとは思ってないことだ。悪口を言ったり、怠けたり、スケベな妄想をしたりするといっても、どれも軽度だろうし、このくらいは別にいいんじゃないかと自分に甘々なのだから仕方ない。
かようなわけで、自分にとっては、立派な人間にならないと救われないというわけではないというのは何よりの福音である。なんか、三浦綾子さんの言葉を取り違えて、自分に都合いいように解釈してしまってる気がしないでもないが、そんな風に思う。