*まるで「大川隆法>真理」のようだ
幸福の科学を長年観察してきて思うことは、大川隆法が真理に則って生きているというよりも、大川隆法に合わせて真理が変えられているということである。

分かりやすい例だと、きょう子夫人を妻にしていた時は、美の女神アフロディーテの生まれ変わりと持ち上げ、離婚した時には、裏切者のユダの生まれ変わりと貶めたのだった。

もうちょっと教義的なことを言えば、以前は、男性は男性として、女性は女性として転生し、魂修行するのが基本とされていたのが、女性幹部登用が増えてからは、男になったり女になったりする転生が当たり前のように語られるようになっている。

こういう事例が度重なると、真理は大川隆法の都合で変わるものだという印象を受けないではいられない。

結局、大川隆法を神格化し、その口で語られたことが真理であるとしたために、このような事態になったのだろう。そのために、真理が仏陀を定めるのではなく、大川隆法が真理とは何かを定めることになり、「大川隆法>真理」という構図になったのだろう。


*本当の真理とは何か?
けれども本当の真理とは、いつでも、どこでも、誰にでも通用するものであるはずだ。不変であり、普遍であるからこそ、真理といえる。だからこそ、真理に従えば、いつでも、どこでも、誰でも幸福になることができる。

一方、大川隆法の説く言葉は、変更または上書きが繰り返され、常に移ろい、定まることがないものである。いわば諸行無常である。移ろいゆくものを頼りにして、安定的な幸福を得ようとしても、どだい無理な話である。

信者の幸福のためには、大川隆法の神格化はほどほどにして、教祖も信者もみなが普遍の真理に従うようにしたらいいのではないかと思う。幸福の科学にはそちらの方向に進んでほしいものである。


*蛇足ながら
ひょっとしたら、信者の中には、大川隆法総裁先生の教えは、表面的には変化しているようにみえても、その本質は変わっていないと主張する人もいるかもしれない。

でもその本質的な部分……たとえば愛、知、反省、発展の教えは常に変わらず、普遍の真理と合致しているのだとすれば、大川隆法に帰依しなければならないという理由はなくなるのである。

普遍の真理というものはあまねく存在しているものであるから、愛、知、反省、発展の教えが普遍の真理であるならば、それはあまねく存在しているものであって、大川隆法が独占しているものではなく、さまざまなところで説かれていることになる。したがって大川隆法に帰依しなくてはならないという理由はなくなる。

結局、大川隆法の説く教えが、コロコロ変わるものだとしても、常に変わらないものだとしても、真理に則って生きるためには、大川隆法に帰依しなくてはならないとは言えないのである。〈了〉