*創造論に傾き過ぎでは?
掲示板での議論などを読んでいると、幸福の科学の信者は、進化論を否定し、創造論を支持している人が多いようだ。稀には進化論について部分的には認めるっぽい発言もあるけれど、ほとんどがかなり強く否定、反発をしている。

でも、本当にこれでいいのだろうか。本当に進化論は間違いで、創造論は正しいのだろうか。

大概の人は、進化論のことはよく知らなくても、人間の胎児のことは知っていると思う。胎児は、受精後にすぐに人の形になるのではなくて、魚の形になったり、動物の形になったりしながら、最後にようやく人の形になる。それだったら、人体はいきなり出現したというよりは、少しずつ今の形になったと考える方が自然ではないだろうか。

また最近のDNA研究によると、人と猿のDNAはほとんど同じだという。その他の動物とも共通する点は少なくないらしい。とすれば、人と猿は断絶しているのではなく、連続しているということだ。異なる生物として別々に創造されたのではなく、共通の祖先を持つ遠い親戚だということである。生物の進化過程についていろいろな説があったとしても、この点は動かし難い事実のようである。

ところで、ダーウィンは「人類の起源」において、人と動物の共通しているところをいくつも挙げて、両者は断絶しているのではなく、連続しているということを示している。宗教の力が強かった時代に、このような発想をし、資料を集め、考えを深め、論文を書き、出版したというのは驚きである。

話を戻すが、最近の幸福の科学は、進化論アレルギーかと思うほど、進化論を毛嫌いして、創造論を強く主張しているようだ。はっきりいって科学的な研究成果に背を向けて、その反対方向に進もうとするのは、カルトがすることである。まっとうな宗教を目指すなら、もっと科学と共存する方法を探った方がいい。この点については、再検討の必要はあると思うがいかがだろう。


*初期の教義では
私の記憶では、初期の幸福の科学は、進化論をある程度は認めていたと思う。たとえばこんな風ではなかったろうか。

・天上界の高級霊が、念の力によって、地上に生命を誕生させた
・いきなり複雑な生物はつくれないので、はじめは単純なものから、徐々に複雑なものへと進化させた。ネズミをつくったら、次にウサギに変化させるというように
・エルカンターレは、人霊が宿るにふさわしい生物(肉体)をつくることに成功しなかったので、他の惑星から人間を移住させることにした
・その結果、エルランティが大船団を率いてベータ星から地球に移住することになり、これが地球人の肉体先祖となった

簡単に要約すれば、生物の進化はあったが、それは適者生存などによるのではなく、高級霊の念の力、目的意識によるものであったということ。

これはトンデモではあるし、DNA研究から行くと、人類の祖先は宇宙人であるなどということは否定されるだろうけれども、大川隆法が人類創造したというよりは、いくらかはよいのではないだろうか。


*なぜ、創造論なのか?
繰り返しになるけど、科学、社会との共存を考えるなら、創造論よりは、高級霊の念の力による進化……いわば念力進化論(?)みたいなものの方がよいように思う。それなのに、なぜ幸福の科学は、創造論の方に大きく傾き、面倒な方向に行こうとするのだろう。

これについては、アンチ的な視点からはわりと容易に想像できる。おそらくは大川隆法の神格化を進めるうちに、大川隆法は根本仏であり、創造主であるというところまでいきついたので、大川隆法が人類創造したことになったのだろうと。

信者的には別の見方もあるだろうけれども、とりあえず自分はそういう事情から、幸福の科学は創造論を支持するようになっていったのだろうと想像してる。


*バランスを取り戻すには
幸福の科学を見ていると、創造論に限らず、STAP細胞にしても、選挙公約にしても、何にしても、その主張は極端なものになりがちだけども、その遠因は、大川隆法の神格化にあるのではないだろうか。

大川隆法を神格化し、絶対的な存在であるとしたがために、大川隆法が一つの方向を指し示すと、信者は異論も疑問も持たずに、その方向にがむしゃらに突っ走ることが要求され、その結果、教団全体のバランスが崩れているのではないだろうか。

数年前に言い出した奇人変人大歓迎という方針を変更しないのであれば、このままでもいいかもしれないが、かつてのように偉大なる常識人を輩出する人生の大学院を目指すというのであれば、この点について考え直してみることは無駄ではないはずだ。

個人的には、今の幸福の科学には賛同できないけれども、社会と協調し、一般にも通用する常識的な方向に進むというのであれば応援したいし、できればそちらの方向に進んでくれればいいなあと思う。この世の常識に逆らい、否定するのでなく、この世とあの世を貫く常識を見つけて尊重するようにしたり、信仰と社会常識との接点を見出し、それを広げる努力をするならば、信者はきっと今より幸福になるだろうし、教団と一般社会との摩擦も減り、社会全体のユートピア化にも貢献できるだろう。〈了〉