*神とは?
神というと、自分は次の連想をする。

(A) 全知全能の存在
全知であれば、未来も全て知っているということだろうし、そうであれば未来は確定してるということ。

(B) 多神教の神々。全知全能ではないが、人を超えた存在。
自分にとっては、神というより、高級霊というイメージ。

(C) 宇宙を統べる法則、真理など。(人格はもたない)
これはおよそ二つに大別できる。
1 法則には、物理的法則だけでなく、哲学的宗教的超自然的な理論も含む。
2 法則は、物理的法則のみに限り、哲学的宗教的超自然的な理論は含まない。 


*無神論とは?
無神論というと、次の連想になる。

(イ) 上のA、Bを否定、C1は肯定
人格神は否定しても、超自然的なことは否定していないので、無神論ではあっても唯物論ではない。

(ロ) 上のA、B、C1を否定、C2は肯定
人格神のみならず、超自然的なことも否定しているので、無神論かつ唯物論
となる。

(ハ) A、B、C1、C2の全てを否定
宗教的無政府主義者というイメージ。


*自分の立ち位置
自分の場合は、Aからハまでの間を行ったり来たりしてる。唯物論系の本を読めばロになり、厭世的な気分になればハになり、敬虔な心持ちの時はAやBを信じ、罪もない子供が無残な殺され方をした事件報道をみればAやBを否定する……。我ながら節操ないなあと思うけれど、これは一生なおりそうもない(笑)。


*無神論アレルギーはなくなった
なぜこんなに節操なくなったのかと考えてみると、無神論アレルギーがなくなったことに関係しているかもしれない。
いつだったろう? もう大分前のことになるが、無神論に説得力を感じはじめた頃に、次のように思ったのだった。
「なぜ自分は無神論に共感し、興味を持ってしまうのだろう? ひょっとしたら神様が、『お前はこれまで有神論を学んできた。今後は無神論を学びなさい』と促してるのかもしれない。それだったら神様の言う通り、無神論を学ぶことにしよう」
もろに、ご都合主義って感じだけど、これによって無神論は絶対にダメだという思い込みはなくなり、それ以来、これでなければならぬという発想はめっきり薄れたようだ。


*無神論は、神への信仰を深める?
変な話かもしれないけど、自分の信仰心は、無神論に共感する様になってから、より強くなったかもしれない。
過去には、「神の御心にかなう自分にならないと救われない」と考えていた時期があった。神の心を狭く解釈していた。
でも、無神論にハマるようになったころから、こう考えるようになった。
「神はとても大きな存在だ。自分がどんな風であろうと、ありのままの自分を受け入れてくれるだろう」
「神は、広い心と深い愛を持っている。それならば思想宗教によって人を差別する差別主義者であるはずがない。どのような思想宗教を持っていようとも、そのことで差別することはなく、みな同じように接してくれるだろう」
「神が無神論者を受け入れないというのは、神は思想宗教によって人を差別するレイシスト呼ばわりするようなものであって、神に対する冒とくだ」
これも、かなりのご都合主義かもしれないけれど、こういう思考にリアリティを感じるのだから仕方がない。


*有神論も無神論も同じこと
人の社会では、有神論者と無神論者が激しく対立してはいる。でも上のように考えると、神の右手に有神論者がのり、左手に無神論者がのり、両者でわーわー言い合ってるだけではないかと思えてくる。神から見たら、有神論も無神論も同じようなものではないかと。
結局、有神論か、無神論かに拘っているのは、神ではなく、有神論(宗教)を飯の種にしてる人か、そういう人にマインドコントロールされてる人くらいだろう。
有神論か無神論かに拘らないでいられない人はそれも仕方ないけれど、そうでない人は、有神論でも、無神論でも、自分に合った方を選んだらそれでいいと思う。


*有神論は無神論である
有神論も無神論も同じことと書いてしまったけど、これは言葉のあやというだけでなく、実際にそういうものかもしれない。
有には無が内包されているというけれど、確かにそれは本当だ。有るものはいずれ無くなる。とすれば、神が有るなら、いずれ無くなる時がくるのだろうし、有は有限、無は無限であるから、「有<無」であるし、この意味で、有神論は無神論に包含されるものなのかもしれない。
もうちょっと書くと、上のA、Bの神は、肉体か霊体か意識体のいずれかであるのだろう。とすると、その肉体、霊体、意識体は何らかの要素で構成されているのだろうし、とすればいつかはその構成が分解されるときがくるのだろう。つまり神は有るといっても、いずれ消えていくということだ。
有神論といったところで、それは神とは無限の中に浮かぶ泡沫のようにはかなく、有限の存在だということをいっているだけであり、無神論の一種でしかないのだ。


*有るのでもなく、無いのでもない神
ひょっとすると、神を信じるには、神は有ると考えてはいけないのかもしれない。神は有るとすることは、神を絶対的な存在から、有・無という相対的な存在に落とすことになるからだ。
そうであれば、神を信じるには、神は有るのでもなく、無いのでもない存在であり、有無を超えた存在だと信じる方がよさそうだ。そしてこの観点からいえば、有神論も無神論もどちらも同じくらい的外れということになる。有神論と無神論は、あれかこれかというよりも、どっちもどっちという関係だ。ただ客観性という点からすると、主観性の上に胡坐をかいてる有神論よりは、無神論の方がずっと優位にあるのは確かではあるが。


*ご都合主義のルーツ
と、この手の屁理屈はいくら重ねてみても仕方ないので、話を戻すと、自分のご都合主義は家庭環境によるのかなあと思う。
自分は、けっこう甘やかされて育ったようで、親に受けいれてもらうために特に何かをしなければならないとか思ったことはなかった。父親は気分屋というか理不尽なところもあったけれど、母親の方にはそういうところは皆無だった。仮に自分が悪いことをしたとしても、怒ったり、叩いたりすることはなかった。これこれこういう理由でそれはよくないことだと教え諭すというのが基本だった。
多分、自分はこういうあまちゃん家庭で育ったので、ありのままの自分を受け入れてくれる神は想像できても、父権的で厳格な神を想像することは難しいのだろう。仮に、厳格な神を信じられたとしても、それは一時的なもので、じきに何か違うと感じて離れ、また柔和で寛大な神の方に戻ってきてしまう。
結局、どういう神を信じるか、信じないかというのは、その人がどういう資質を持っていて、どういう環境で育ったかによって決るものかもしれない。問題は、何が真実かではなく、どういう考え方が自分に合うかということなのだ。とすればますます、有神論か、無神論かに拘るのは無意味ということになる。どっちでも自分に合う方、人生をよりよくする方を選んだらいいという結論になる。


*無神論的有神論? 有神論的無神論者?
ちなみに上で書いた母親は、特定の宗教の信者ではないものの、神や霊を信じるタイプである。その影響なのか、自分は頭では無神論唯物論の方が正しそうだと思いつつも、第六感では神や霊の存在をリアルに感じてしまうことがある。それは客観的には妄想かもしれないが、主観的にはリアルであり、無視するのは難しいのだから仕方がない。自分はどうもこのまんまガチの無神論唯物論者にはなれず、無神論的有神論者か、有神論的無神論者というような中途半端な状態で最期まで行きそうである。