*癒される物語
これは、霊能者になりたいけれどもなれない女の子の物語だ。自分に霊感はないことは承知しつつも、霊能者になるために努力をするが、その結果ますます自分は霊感ゼロで、霊能者になることはできないことがはっきりして行くという、とほほな状態……。
裏表紙をみると、〝福音館創作童話シリーズ〟とあるけれども、この物語は子供でも大人でも、男でも女でも、なりたい自分になれない悩みを抱えている人であれば誰でも、面白く読めると思う。泣ける場面も多い。
ちなみに今は、文庫本も出てるらしい。↓
これは、霊能者になりたいけれどもなれない女の子の物語だ。自分に霊感はないことは承知しつつも、霊能者になるために努力をするが、その結果ますます自分は霊感ゼロで、霊能者になることはできないことがはっきりして行くという、とほほな状態……。
裏表紙をみると、〝福音館創作童話シリーズ〟とあるけれども、この物語は子供でも大人でも、男でも女でも、なりたい自分になれない悩みを抱えている人であれば誰でも、面白く読めると思う。泣ける場面も多い。
ちなみに今は、文庫本も出てるらしい。↓
*あらすじ
ネタバレになるけども、あらすじをもう少し詳しく書けばこうなる。
物語の主人公は、春永という名前の女の子であり、春永は祈祷師一家(三人)と暮らしている。祈祷師一家のおかあさんと和花ちゃんは霊能者で、おとうさんもそれっぽい。春永だけが霊感ゼロだ。春永はどうにかして自分も霊能者になりたいと願い、厳しい修行もするが、その希望はなかなか実現しない。
そうやってもんもんとした日を送るうちに、和花ちゃんが神様に選ばれる日がくる。神様は和花ちゃんに祈祷師になるように迫ってくる。これによって春永は、霊感ゼロの自分にはどこにも居場所はないと思い詰めて行く……。
*理由
春永が霊能者になりたい、そうでなくても修行したいと願うには相応の理由があるようだ。たとえば春永は実母の記憶がほとんどないという。実母は、小さい春永を祈祷師一家に預けたまま、遠い所に行ってしまい、それっきり会っていないからだ。
つまり祈祷師一家では、おとうさん、おかあさん、和花ちゃんは血縁関係にあるが、春永だけは血がつながっていない。それだから余計に家族とのつながりを求めているらしい。
春永が霊能者になりたい、そうでなくても修行したいと願うには相応の理由があるようだ。たとえば春永は実母の記憶がほとんどないという。実母は、小さい春永を祈祷師一家に預けたまま、遠い所に行ってしまい、それっきり会っていないからだ。
つまり祈祷師一家では、おとうさん、おかあさん、和花ちゃんは血縁関係にあるが、春永だけは血がつながっていない。それだから余計に家族とのつながりを求めているらしい。
自分になんの力もないことは自分が一番よく知っていた。そして水を浴びたくらいでその力が身につくわけがないことも知っていた。ただ、水行さえしていれば、力を持ってなくても力を持つみんなと同じでいられるように思った。血がつながってなくても血がつながってるように思っていられた。力のつながりより血のつながりより濃いとはいえなくても、同じくらいのつながりを持っていられるような気がした。(『祈祷師の娘』中脇初枝著、福音館書店、2004年、p.66)
(注 祈祷師一家は、上に述べたよりもさらに複雑で、おとうさんおかあさんは夫婦ではなく、兄妹であり、その妹の娘が和花ちゃんだ。妹は嫁ぎ先で神秘現象が起きすぎて、和花ちゃんを連れて実家に戻らざるを得なくなった。春永はこの兄妹のことをおとうさん、おかあさんと呼んで育った。この辺りの複雑さも、春永が何かとしっかりつながりたいという気持ちに影響しているのだろう、たぶん。う、う~ん。舞台設定はなかなかに複雑なのでうまく説明できないのがもどかしい……。)
*配置
ひるがえって、主な登場人物たちの個性と悩みをざっと見ると、次のようになっている。
まず主人公の春永は、内向的で感情を表に出さないタイプに描かれている。幼馴染みの久美ちゃんの傍若無人なふるまいにも怒ることはできず、ほぼ無抵抗だ。そして霊能者になりたくとも、霊感はゼロのままだ。祈祷師一家の役に立ちたくても、それができずに悩んでいる。
和花ちゃんは、明るく、自由にのびのび生きている。霊能力はおかあさん以上ともいえる。ただ神様から、人助けのために祈祷師になるようにとの催促がくるようになってからは、寝込む日がつづき、苦しむことになる。神様の命令は絶対であって、それを拒んでいる限りは苦しみが続くという。
ひかるちゃんは、霊感が強すぎて、さわりがでやすく、そのために祈祷所に通って、さわりを取り除いてもらっている小学生だ。霊視もできて、予知能力もすごい。クラスでこっくりさんをやったときは、ひかるちゃんが十円玉に触れた途端にぐわんぐわんと動き出して大騒ぎになったりもする。そのせいで、バケモノと罵られ苛められている。父母からも疎まれる。やがて、バケモノではなく、普通になりたいと言いだす。
これらの登場人物を、主人公の春永を中心にして眺めてみれば、霊能力を欲しがっている春永の周囲には、その霊能力を持っているがゆえに苦しんでいる和花ちゃん、ひかるちゃんが配置してあるということになる。
また内向的で思ったことを口に出せない春永に対して、幼馴染みの久美ちゃんはわがままといえるくらい自分勝手だし、和花ちゃんは自分勝手ではないけれども、人の目を気にすることなく、マイペースで暮らすことのできる性格になっている。
このあたりをみると、作者が言いたいことは何となしに伝わってくるし、うまいこと組み合わせてるんだなあと思う。。
ひるがえって、主な登場人物たちの個性と悩みをざっと見ると、次のようになっている。
まず主人公の春永は、内向的で感情を表に出さないタイプに描かれている。幼馴染みの久美ちゃんの傍若無人なふるまいにも怒ることはできず、ほぼ無抵抗だ。そして霊能者になりたくとも、霊感はゼロのままだ。祈祷師一家の役に立ちたくても、それができずに悩んでいる。
和花ちゃんは、明るく、自由にのびのび生きている。霊能力はおかあさん以上ともいえる。ただ神様から、人助けのために祈祷師になるようにとの催促がくるようになってからは、寝込む日がつづき、苦しむことになる。神様の命令は絶対であって、それを拒んでいる限りは苦しみが続くという。
ひかるちゃんは、霊感が強すぎて、さわりがでやすく、そのために祈祷所に通って、さわりを取り除いてもらっている小学生だ。霊視もできて、予知能力もすごい。クラスでこっくりさんをやったときは、ひかるちゃんが十円玉に触れた途端にぐわんぐわんと動き出して大騒ぎになったりもする。そのせいで、バケモノと罵られ苛められている。父母からも疎まれる。やがて、バケモノではなく、普通になりたいと言いだす。
これらの登場人物を、主人公の春永を中心にして眺めてみれば、霊能力を欲しがっている春永の周囲には、その霊能力を持っているがゆえに苦しんでいる和花ちゃん、ひかるちゃんが配置してあるということになる。
また内向的で思ったことを口に出せない春永に対して、幼馴染みの久美ちゃんはわがままといえるくらい自分勝手だし、和花ちゃんは自分勝手ではないけれども、人の目を気にすることなく、マイペースで暮らすことのできる性格になっている。
このあたりをみると、作者が言いたいことは何となしに伝わってくるし、うまいこと組み合わせてるんだなあと思う。。
*結末
結末については、ネタバレになるのではっきりとは書かないでおくけど、少しだけほのめかすと、読後感はとてもよいといえると思う。また、最後のくだりを読むと、ありのままの自分を肯定的に考え、受け入れるためのヒントを得られるはずだ。〝あんな風になりたい〟ではなくて、〝自分は自分のままでいいんだ〟と安心できる。
結末については、ネタバレになるのではっきりとは書かないでおくけど、少しだけほのめかすと、読後感はとてもよいといえると思う。また、最後のくだりを読むと、ありのままの自分を肯定的に考え、受け入れるためのヒントを得られるはずだ。〝あんな風になりたい〟ではなくて、〝自分は自分のままでいいんだ〟と安心できる。
*デミアン
ところで作中には、ヘッセの「デミアン」を彷彿とさせる場面があった。
ところで作中には、ヘッセの「デミアン」を彷彿とさせる場面があった。
わたしは懸命に山中くんの横顔をみつめた。うちによく来るひかるちゃんが言うには、必死になって思っていれば、なんでも思いどおりになるものなんだそうだ。ひかるちゃんはその言葉どおり、こちらに背をむけているひとを声をかけないでふりむかせることができる。(同上、p.20)
「デミアン」の中にも、背を向けている人を振り向かせる話があるのだけれど、それを読んだ後は、自分も真似したものだった。結果はまったくだめだったけど(笑)。友達も、「デミアン」を読んだ後は、同じことを試してみてたようだ。
これはまったくおかしな話ではあるけれども、若者の多くは、神秘的な力を持った特別な自分を空想するものだろうし、そうであればデミアンの特殊能力を真似してみないではいられないのも仕方のないことではある。おっさんになった今はそんな風に思う(笑)。
これはまったくおかしな話ではあるけれども、若者の多くは、神秘的な力を持った特別な自分を空想するものだろうし、そうであればデミアンの特殊能力を真似してみないではいられないのも仕方のないことではある。おっさんになった今はそんな風に思う(笑)。
*地鎮祭
霊現象に興味がある人なら、地鎮祭から戻った祈祷師と子供たちの話はおもしろいかもしれない。
霊現象に興味がある人なら、地鎮祭から戻った祈祷師と子供たちの話はおもしろいかもしれない。
「いったら寝てたんだよ、おじいさんが。注連張った真中、更地の真中に、はだかでな。やせたおじいさんが、帰れっていうんだよ。さっさと帰れって。行倒れじゃねえかと思うんだけど。」
〈省略〉
「しょうがねえよ。ひととおりお祓いしてな、帰ってきた。」
「おじいさんは?」
「寝てたよ、ずっと。」わたしも和花ちゃんも吹きだしそうになったけど、お客さんのことを考えてこらえた。(同上、pp.116-117)
これは地鎮祭を頼んだお客さんからしたらたまったもんじゃないだろうけど、もし地縛霊という存在があるなら、こんなこともあるかもしれない。
地鎮祭で地縛霊をはらったというよりも、何を言っても押し問答にしかならず、仕方がないから儀式の形だけ済ませて帰ってきたという方がリアルに感じるのはなぜだろう。
地鎮祭で地縛霊をはらったというよりも、何を言っても押し問答にしかならず、仕方がないから儀式の形だけ済ませて帰ってきたという方がリアルに感じるのはなぜだろう。
*他の作品
著者の作品は、他には「魚のように」「花盗人」「きみはいい子」は読んだことがある。初期の「魚のように」「花盗人」は感性が鮮やかだけども道徳的かどうかは微妙に思う。「きみはいい子」と本作はといえば、初期二作よりも、はっきりと道徳的だ。
想像するに、特殊な感性と普遍的な道徳とを両立させるのは困難にちがいない。特殊な感性の持主は、道徳の枠から外れがちというか、そもそも道徳に価値を認めない傾向があるだろうし、道徳を重視する人は、特殊な感性を不道徳だといって糾弾しそうだ。この点、この二つは水と油の関係だ。
けれども著者は、特殊な感性と普遍的な道徳とを併せ持っている稀有な人のようだ。これはすごいことだ。本来ならもっともっと注目されるべき人ではないかと思う。
著者の作品は、他には「魚のように」「花盗人」「きみはいい子」は読んだことがある。初期の「魚のように」「花盗人」は感性が鮮やかだけども道徳的かどうかは微妙に思う。「きみはいい子」と本作はといえば、初期二作よりも、はっきりと道徳的だ。
想像するに、特殊な感性と普遍的な道徳とを両立させるのは困難にちがいない。特殊な感性の持主は、道徳の枠から外れがちというか、そもそも道徳に価値を認めない傾向があるだろうし、道徳を重視する人は、特殊な感性を不道徳だといって糾弾しそうだ。この点、この二つは水と油の関係だ。
けれども著者は、特殊な感性と普遍的な道徳とを併せ持っている稀有な人のようだ。これはすごいことだ。本来ならもっともっと注目されるべき人ではないかと思う。
*まとめ
『祈祷師の娘』は数年ぶりに再読したのだけども、内容はすっかり分かっていても、はじめて読んだ時のように感動できたし、泣けたのはよかった。これで本作は、自分の中では殿堂入りだ。数年後に再再読するのが楽しみである。なんだか、前に読んだ「魚のように」「花盗人」「きみはいい子」なども読み返したくなってきた。著者の作品には未読のものはたくさんあるし、「世界の果てのこどもたち」にいたっては政治、歴史認識の違いから苛々しそうだと思って敬遠してたのだが、やっぱりそんなセコイことは考えずに読んでみよう。〈了〉
『祈祷師の娘』は数年ぶりに再読したのだけども、内容はすっかり分かっていても、はじめて読んだ時のように感動できたし、泣けたのはよかった。これで本作は、自分の中では殿堂入りだ。数年後に再再読するのが楽しみである。なんだか、前に読んだ「魚のように」「花盗人」「きみはいい子」なども読み返したくなってきた。著者の作品には未読のものはたくさんあるし、「世界の果てのこどもたち」にいたっては政治、歴史認識の違いから苛々しそうだと思って敬遠してたのだが、やっぱりそんなセコイことは考えずに読んでみよう。〈了〉