*退会者の信仰
幸福の科学(HS)信者による退会者批判を読んでいると、「なんか、ちがうなー」と感じることが多々ある。たとえば、HS信者は退会者のことを無神論・唯物論者のように言うことがあるけれども、それは全然ちがうと思う。
幸福の科学(HS)信者による退会者批判を読んでいると、「なんか、ちがうなー」と感じることが多々ある。たとえば、HS信者は退会者のことを無神論・唯物論者のように言うことがあるけれども、それは全然ちがうと思う。
HS信者からしたら、大川隆法は神ということになるので、大川隆法を信じないことは神を信じないのと同じになるのかもしれない。
でも退会者は、多くの場合、大川隆法は神ではない、神とは別の存在だと考えるているものだろう。大川隆法を否定したからといって、同時に、神を否定したことにはならない。「神は素晴らしい存在であって、大川隆法ごとき者が神であるわけがない」というように、神を信じるがゆえに、大川隆法を否定することさえある。
これと同じことは、アンチにも言える。アンチは、大川隆法は神ではないと考えているから、大川隆法を批判したからといって、神を否定しているつもりはない人が大半だろう。
一口に退会者、アンチと言っても、いろいろな考え方の人がいるわけだから、退会者はこうだ、アンチはこうだとは安易には決めつけられないけれども、大雑把にいえば、上のようには言えるのではないだろうか。この辺りのことは、HS信者らにも知っといてほしいなあと思う。
*エル・カンターレ信仰の特殊性
ついでにもう一つ書くと、HS信者とそうでない人とでは、信仰の意味がちがっているようだ。
たとえば、一般人にとっての信仰は、天上の神を信じることだろう。この世ならざる高貴なる存在を信じることだ。でも、HS信者にとっての信仰は、大川隆法は主エル・カンターレだと信じることになっているようだ。もちろん天上の神を信じるという意味で、信仰という場合もあるだろう。でも多くの場合、大川隆法は神だと信じることをもって信仰といっているようだ。
・一般的な信仰……天上の神を信じること
・HSの信仰……大川隆法を神だと信じること
・HSの信仰……大川隆法を神だと信じること
このちがいは、とてつもなく大きい。信じる、信じないということが、まったくちがった意味になりえるからだ。「大川隆法は信じない」という言葉が「神は信じない」と受け取られたり、「信仰は大切だ」という言葉が「神を信じることは大切だ」ではなく、「大川隆法を信じることは大切だ」という意味で使われたりするからだ。
これは結構ややこしいかもしれない。でもこのズレを知っておかないと、信者と退会者、シンパとアンチが、信仰について議論してもちっとも話がかみ合わないことになるし、注意が必要だと思う。
*退会者は変節したのか?
信者による退会者批判には、「退会者は退転した」というものがあるが、私にはこれもやっぱりちがうと思う。信者からはそう見えるのも仕方ないけれども、もっと大きな視点からみればその限りではないと思う。
信者による退会者批判には、「退会者は退転した」というものがあるが、私にはこれもやっぱりちがうと思う。信者からはそう見えるのも仕方ないけれども、もっと大きな視点からみればその限りではないと思う。
まず、HSの教えについて振り返ると、初期とその後とでは正反対といえるほど、大きく変わっている。このことはサンポールさんが記事にしてる。
●混ぜるな危険! ブログ・サンポール|『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-241.html
●混ぜるな危険! ブログ・サンポール|続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
http://sanpole.blog.fc2.com/blog-entry-242.html
このことから分かるのは、初期の教えについて「本物だ。最上の教えだ」と考えた人が、その後の改変された教えを受け入れることなく退会したとして、それは必ずしも変節したとはいえないし、はじめの宗教判断を間違ったとも言えないということだ。なぜなら、そういう人は初期の教えを正しいとした判断を変えてはいないし、それを信じ続けているからこそ、初期とは違うことを言い出したHSを退会しただろうからである。
この場合、変節したのは、退会者というより、むしろ信者を続けている人の方である。初期の教えを「本物だ、最上の教えだ」と判断して入会したにもかかわらず、その後、初期とは正反対ともいうべき教えが発表されると、「初期の教えは最上の教えでなく、こちらの方がさらに発展した教えだ」とするのであれば、初期の判断は間違っていたということであるし、変節でもあるだろう。
信者から退会者に対して、次のような批判があるのは承知している。
「HSの発展についてこれなかったのだ。新しく説かれた教えを理解できないのだ」
でもこれに対しては、次の反論はある。
「真理は普遍、不変であって、新しいも、古いもない。したがって、新しい教えなどということは、それ自体、真理でないことの証明だ」
この辺りのことは神学論争みたいなものであって結論はなかなか出ないだろうけど、それでも信者さんには、退会者の中には、ずうっと同一の信仰を持ち続けていて、変節も何もしていない者もいることは知って欲しいなあと思う。
教祖、教団に関しては、この記事の後半に書いたようなことが言えると思う。
●楽山日記|「幸福の科学」信者のブログを読んでみた (12時信仰論)
http://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/37934562.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/37934562.html
その大意をいえば、教祖教団が変わっていくのに合わせて、神、真理団体に対する観念を変えようとしたが、それはできなかったということである。ようするに自分は変節することはできずに、一定の信仰を持ち続けたということである。
これと似たことは、恋愛でもある。恋人と付き合い続けるために、自分を恋人に合わせようとするものの、それができずに別れるというケースだ。これは恋人に対する心変わりともいえるけれども、自分の中には、恋人にも影響されない程の確固たる信念があって、それはずうっと変わらないということでもある。
あとは教祖を仏陀と判断したことについてだけども、これについては間違いを犯したと認めざるを得ないように思う。教祖の本を読んだり、講演を聞いたくらいで、この人はすばらしい人だ、仏陀にちがいないと信じ込むというのは、若気の至りとはいえ、あまちゃんすぎた。教祖を仏陀と誤認したことをもって、「あなたの人物鑑定眼は信用できない」と言われたら、ぐうの音も出ない。
ただ今でもよく覚えているけれども、教祖は仏陀ではないという結論を出すのは、ものすごく怖かった。また仏陀ではない人を、仏陀だと誤認した愚かさを認めるのは恥ずかしかったし、苦しかった。でもそういう経験をしたおかげで、聖書の義人一人もなし、人は間違うものだという人間観には心から共感できるようになった。他人を見下したり、嘲笑したりすることが減り、前より優しくなれたような気はする。
目的論的に考えたり、物事にスピリチュアルな意味付けしたりすることには抵抗感があるし、自分の失敗を合理化しても仕方ないことではあるが、それでもこういう点をみるとHSに入会、退会したのには、何らかの学びはあったなあと思わないでもない。他の退会者もHSでの経験については、何らかの教訓を得ているのだろうなあと想像する。
*恩返し
信者の中には、退会者がアンチ化してHS批判している動機について、恨み、憎しみによるのだろうと考えている人もあるようだ。退会してアンチ化した人の中には、そういう人もいるだろうなあと思う。
信者の中には、退会者がアンチ化してHS批判している動機について、恨み、憎しみによるのだろうと考えている人もあるようだ。退会してアンチ化した人の中には、そういう人もいるだろうなあと思う。
自分自身を振り返っても、退会直後はそんな気持ちは多分にあったのは確かだ。でもそういう気持ちは長くは持続しないもののように思う。私の場合は、退会直後はHSに限らず、宗教全般に批判的だったけれども、キリスト教について、ネット上で議論するうちに、そんな気持ちはだんだん薄れて行った。
その時の議論を思い出すと、キリスト教批判をする私は、悪霊悪魔認定されるだろうなあと思ってたら、クリスチャンからはこんな主旨のことを言われたのだった。
「激しい批判者が、熱心な信仰者になることは珍しくありません。ですから、キリスト教に無関心でいるよりも、熱心に批判する方がいいです」
信者が他人に親切にするのは、この人を入信させようという下心があるからだろうという勘繰りには、こう返された。
「洗礼のあとに棄教したとなると、明確に神を捨てたことになるから、はじめから洗礼を受けていなかった人よりも、厳しい状況になることが予想される。そうなるよりは洗礼は受けない方がいい。誰彼かまわず洗礼をすすめたいとは思わない」
「洗礼の前に、半年~数年をかけてキリスト教の教理について勉強してもいながら本人の決意を確認しているから、ただ信者を増やしたいというのはあたらない」(カトリックではこのようにするらしい)
「洗礼の前に、半年~数年をかけてキリスト教の教理について勉強してもいながら本人の決意を確認しているから、ただ信者を増やしたいというのはあたらない」(カトリックではこのようにするらしい)
この他にもいろいろやり取りはあったけど、およそこんな議論をしているうちに、私は宗教全般に対する怒りは消えたし、ちょっと攻撃的すぎたと反省した。今にして思うと、元カルト信者がカトリック信者になるという流れは、よく理解できるように思う。
ちなみに、HS批判の動機について書くと、恩返しという意識はけっこうある。一つはネット上にある批判、告発を読むことで、退会の後押しをしてもらったことから、先輩アンチへの恩返しとしてHS批判をしているということだ。もう一つは、なんだかんだいっても大川隆法とHSにはいろいろ学ばせてもらったので、おかしいと思うことは率直に批判、諌言するのが元会員のつとめだという意識だ。
こういう心情は、現役信者からしたら理解し難いかもしれないけど、私からすれば今の大川隆法とHSを見ていて、元会員としてはとてもつらく、悲しい気持ちになるのは至極当然の感情だろうと思う。ただ最近は、初期の著作物は、大川隆法ではなく、富山誠によるものだという説がささやかれているので、もしこれが本当ならば恩返しとして大川隆法を批判する必要はないということになるかもしれない。
*退会者へ
さいごは、退会者へ向けて書いてみたい。
さいごは、退会者へ向けて書いてみたい。
退会した直後というのは、多かれ少なかれ孤独感からは逃れられないのではないかと思う。でもそもそも信仰とは、個人的なものであって、他者と共有するのは無理なことではある。
みんなと同じ宗教を信じているとしても、その中身をよくよく話し合ってみれば、それぞれ違った解釈に基づいて信仰しているものだ。信仰を突き詰めれば突き詰めるほど、信仰について他者と完全同意することは難しくなる。宗教を作る人も、宗教教団の中で教義解釈の違いから争う人も、信仰は共有できないという単純な事実を認めることができないから、そんなことをするのだろう。
結局、人は他者と独立した個人である限り、信仰は共有できないし、孤独からは逃れられないものなのだと思う。ただその孤独に気がついているか、気がついていないかというちがいだけだ。自分は宗教教団に属して、多くの法友と同じ信仰を持っているという人は、集団の中の孤独に気付いてないだけだろう。
宗教団体とは、個人意識が広まる前は成立したかもしれないが、今はもう成り立たないと思う。すくなくとも個人意識を持つ人を、一定の信仰形態の枠にはめて、まとめるのは無理だ。
孤独についていろいろ書いたけど、孤独というものは必ずしも悪いことではない。釈迦も、イエスも、孤独の時期をすごしてる。ミルク粥を食して以降、荒野での四十日のように……。「孤独の隣りには神がいる」というけれど、まさに孤独だからこそ、神と出会えるものなのかもしれない。ひょっとしたら神と向き合うには孤独でなければならないとさえいえるかもしれない。孤独というのは、全然苦にならない人もいれば、絶対無理という人もいるだろうから、誰にでも歓迎されるものではないだろうけども、信仰のためには避けて通れない道ではあると思う。
ちなみに自分が孤独を感じてる時に、勇気づけられたのは、『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫 中村元訳)の「第一 蛇の章 三、犀の角」だった。サイの角のごとく、ただ独り歩めというものだ。リルケの「若き詩人への手紙」も味わい深かった記憶がある。リルケは「マルテの手記」とかは暗いし、HS的な評価は微妙かもしれないけど、孤独、詩、倫理という点からの吸引力はすごい。自分の場合は、孤独の時期はもっとも本を読んだ時期だったろうし、後から考えればこれもHS体験と同様に、自分にはどうしても必要なことではあったのだろう。人生、無駄なことは一つもないという考えからすると、それも当然ではあるけれど、退会した後は孤独だという人は孤独だからこそ学べること、できることをしたらいいと思う。〈了〉
◇◆ 追記 20160124 ◆◇
*思い出した
今、思い出したけど、大川隆法をはじめて知ったのは、書店で高橋信次の霊言集の背表紙を見た時だった。その時の第一印象は、高橋信次の名前が利用されてるというものだった。その後、知人が大川隆法の本を読んでいると知り、じゃあ自分も読んでみようかと思い……だんだんはまっていったのだった。
自分にとって、大川隆法の第一印象は決してよいものではなかった。書店で著書を見掛けた時だけでなく、はじめて顔写真を見た時、声を聞いた時、講演会に出掛けた時も……。う~ん、やっぱり、一番はじめの直感をもっともっと大事にすべきだったかもしれない。
われながら、どうしてあんなに熱烈な信者になってしまったのか不思議な心持ちがする。ランディ・ローズ、リッチ―・ブラックモア、マイケル・シェンカー、イングウェイ・マルムスティーンなどギターヒーローを崇拝する癖があったので、個人崇拝にはまる素地はもともとあったのだろうけど、それにしても誰かを仏陀だと思い込むなんて、今となっては自分でも理解し難い。
今、思い出したけど、大川隆法をはじめて知ったのは、書店で高橋信次の霊言集の背表紙を見た時だった。その時の第一印象は、高橋信次の名前が利用されてるというものだった。その後、知人が大川隆法の本を読んでいると知り、じゃあ自分も読んでみようかと思い……だんだんはまっていったのだった。
自分にとって、大川隆法の第一印象は決してよいものではなかった。書店で著書を見掛けた時だけでなく、はじめて顔写真を見た時、声を聞いた時、講演会に出掛けた時も……。う~ん、やっぱり、一番はじめの直感をもっともっと大事にすべきだったかもしれない。
われながら、どうしてあんなに熱烈な信者になってしまったのか不思議な心持ちがする。ランディ・ローズ、リッチ―・ブラックモア、マイケル・シェンカー、イングウェイ・マルムスティーンなどギターヒーローを崇拝する癖があったので、個人崇拝にはまる素地はもともとあったのだろうけど、それにしても誰かを仏陀だと思い込むなんて、今となっては自分でも理解し難い。