*名言!
「正語とは、心のままに語ること」というのは、しばらく前に知った言葉だけども、なかなかの名言だ。
「正語とは、心のままに語ること」というのは、しばらく前に知った言葉だけども、なかなかの名言だ。
文脈からいうと、正直であれ、心にもないことは言うな、美辞麗句で誤魔化すなというような意味っぽい。
うまいこと言うなあと思う。語呂というか何というか、言葉の響きもいい。
*誤読では?
ただこれについては批判もあるらしい。
ただこれについては批判もあるらしい。
「心のままに語るのが正語だというなら、心に悪口雑言が浮かんだら、それをそのまま言ってもいいのか。そんなわけがないだろう」というような批判だ。
「正語とは、心のままに語ること」という上っ面だけを見るなら、そういう誤解が生じるのも仕方ないかもしれない。
でも全体の流れをみれば、そういう意味ではなく、正直であれ、心にもないことは言うな、美辞麗句で誤魔化すなというような意味の言葉であることは明白と思う。
ていうか、心のままに語ったら、悪口雑言ばかり言うことになるという人は、普段はそういうことばかり思ってるのかなあと心配になってくる。
「正語とは、心のままに語ること」という上っ面だけを見るなら、そういう誤解が生じるのも仕方ないかもしれない。
でも全体の流れをみれば、そういう意味ではなく、正直であれ、心にもないことは言うな、美辞麗句で誤魔化すなというような意味の言葉であることは明白と思う。
ていうか、心のままに語ったら、悪口雑言ばかり言うことになるという人は、普段はそういうことばかり思ってるのかなあと心配になってくる。
*理屈をいうと
少し理屈をいうと、八正道は、正見、正思、正語……という順番になっている。正語の前に、正思がある。
心をととのえた後に、言葉をととのえるということらしい。
とすれば、この順番を守るかぎりは、心のままに語ったとしても、言葉が大きく乱れることはないだろう。
「心のままに語ったら正語にならない」という批判は、おそらくは、正語の前に正思があることを、ど忘れしちゃってるのかもしれない。
少し理屈をいうと、八正道は、正見、正思、正語……という順番になっている。正語の前に、正思がある。
心をととのえた後に、言葉をととのえるということらしい。
とすれば、この順番を守るかぎりは、心のままに語ったとしても、言葉が大きく乱れることはないだろう。
「心のままに語ったら正語にならない」という批判は、おそらくは、正語の前に正思があることを、ど忘れしちゃってるのかもしれない。
*順番には意味がある
ところで、世の中にはいろいろな人がいるので、八正道の順番を入れかえて、正語を正思よりも前に持ってくることを提案している人もいるようだ。時には、そういう柔軟な発想もいいかもしれない。
でもこの場合は、そういうことはしてはいけない。
正語を正思よりも前にすると、心を整えずして、言葉を整えることになってしまう。これでは心に悪感情を抱きながら、言葉だけはきれいにするということになりかねない。まさに、巧言令色少なし仁という状態だ。下手すると、嘘つきになってしまう。
やはり、正見、正思、正語……という順番は、勝手に入れかえない方がいい。順番にはちゃんと意味があるのだ。
ところで、世の中にはいろいろな人がいるので、八正道の順番を入れかえて、正語を正思よりも前に持ってくることを提案している人もいるようだ。時には、そういう柔軟な発想もいいかもしれない。
でもこの場合は、そういうことはしてはいけない。
正語を正思よりも前にすると、心を整えずして、言葉を整えることになってしまう。これでは心に悪感情を抱きながら、言葉だけはきれいにするということになりかねない。まさに、巧言令色少なし仁という状態だ。下手すると、嘘つきになってしまう。
やはり、正見、正思、正語……という順番は、勝手に入れかえない方がいい。順番にはちゃんと意味があるのだ。
*正語の正しさとは?
ところで、正しいとはどういうことなんだろうか。
ザックリ言えば、それは中道ということだろう。中道ということは……ふさわしいということかな。
中道のたとえとして、よく言われるのは、弦は強く締めれば切れてしまう、ゆるすぎては音にならない、ほどよいところでこそ、きれいに響くというものだ。ようするに両極端は避けて、適正な位置を保つこと。
ただし極端は避けるといったからといって、なんでもかんでも中ほどがいいというわけではない。機械のネジのように、きつく締めてこそ、適正な位置を保つことになる場合もある。
おそらくは、正しさ、中道とは、常にこうしていればよいという風に固定的なものではないのだろう。
こういう観点から、正語を考えると、きれいな言葉を使っていさえすれば、それで十分だというわけではなくなる。場合によっては、きれいな言葉はまちがいで、厳しい言葉、あらっぽい言葉を使うべきときもあるかもしれない。
こう考えると、正語の実践はすごく難しい。自分には一生かかってもマスターすることは無理そうだ。
ところで、正しいとはどういうことなんだろうか。
ザックリ言えば、それは中道ということだろう。中道ということは……ふさわしいということかな。
中道のたとえとして、よく言われるのは、弦は強く締めれば切れてしまう、ゆるすぎては音にならない、ほどよいところでこそ、きれいに響くというものだ。ようするに両極端は避けて、適正な位置を保つこと。
ただし極端は避けるといったからといって、なんでもかんでも中ほどがいいというわけではない。機械のネジのように、きつく締めてこそ、適正な位置を保つことになる場合もある。
おそらくは、正しさ、中道とは、常にこうしていればよいという風に固定的なものではないのだろう。
こういう観点から、正語を考えると、きれいな言葉を使っていさえすれば、それで十分だというわけではなくなる。場合によっては、きれいな言葉はまちがいで、厳しい言葉、あらっぽい言葉を使うべきときもあるかもしれない。
こう考えると、正語の実践はすごく難しい。自分には一生かかってもマスターすることは無理そうだ。
*まちがってるかな
自分は専門家ではないので、ひょっとしたら間違ったことを書いてるかもしれない。もしそうであれば、ご指摘があれば改めたいと思う。
ただ現時点では、自分は以上のように考える次第である。 〈了〉
自分は専門家ではないので、ひょっとしたら間違ったことを書いてるかもしれない。もしそうであれば、ご指摘があれば改めたいと思う。
ただ現時点では、自分は以上のように考える次第である。 〈了〉
◇◆ 追記 20060214 ◆◇
*見つけた
昨夜、何気なく本を開いたら、次の記述を見つけた。著者は、孔子が詩経について「思、邪なし」と評したことについて、次のように解説している。
昨夜、何気なく本を開いたら、次の記述を見つけた。著者は、孔子が詩経について「思、邪なし」と評したことについて、次のように解説している。
詩篇中には、必ずしも道徳礼儀の模範にはならない思想や行動も歌われているが、それらにしてもみな切実純真な人の心における喜怒哀楽の表現であって、かけひきやごまかしがない、そこが詩の真価だ、という意向である。(竹内照夫『四書五経 東洋文庫44』平凡社、昭和40年、p.99)
さらにこの後には、こうある。
ところが周末漢初の儒家には、詩経の諸篇はすべて政治上・道徳上の目的のために作られたもの、と称し、三百篇の一つ一つにもっともらしい制作動機や倫理的意味を付け加えた人々があり、これが後世ながく儒教の正統的な詩経観と認められたのであって、孔子の本意に背くことがはなはだしいのである。(同上、p.99)
この解説を読むと、孔子は、詩については、たとえ道徳礼儀から幾分はずれていたとしても、損得勘定はせずに、「純粋な情意表現」が為されているならば、邪まな思いはないとして評価したようだ。
けれども後の世になると、そういう純粋、切実な心情をそのまま受け止めるのでなく、無理矢理にでも道徳の型にはめ、意味付けするようになり、そのような解釈が主流にになっていったと……。
*共通点
これを読んで、ふと思ったのだが、孔子のいう「思、邪なし」というのは、「正語とは、心のままに語ること」に通じるものがあるのではなかろうか。「詩とは、心のままに語ること」と言い換えても違和感ないし。
でもこれだと、小学校時代の作文の授業を思い出すなあ。「心に思ったことを、そのまま書きなさい」というやつだ。これは大概の人は、聞いたことあると思う。
これを読んで、ふと思ったのだが、孔子のいう「思、邪なし」というのは、「正語とは、心のままに語ること」に通じるものがあるのではなかろうか。「詩とは、心のままに語ること」と言い換えても違和感ないし。
でもこれだと、小学校時代の作文の授業を思い出すなあ。「心に思ったことを、そのまま書きなさい」というやつだ。これは大概の人は、聞いたことあると思う。
*真理は身近にある?
「思、邪なし」
「正語とは、心のままに語ること」
「心に思ったことを、そのまま書きなさい」
こんな風に並べると、孔子の言葉の格調高さ、ありがたみが減ぜられるような気がしないでもないが、
真理は、数千年前にも、現代のネット上でも、小学校の教室でも語られているのだと思えば、心強い心持ちもする。
本来、真理というものは、、特別な時代、特別な人物によってしか語れないものではなく、いつの時代でも、どんな場所でも、いろんな人によって語られるものであって、それだからこそ真理なのかもしれない。
だとすれば、真理は語られるかどうか以上に、そこに真理があるかどうかに気付けるかどうかが重要だということになりそうである。 〈了〉
「思、邪なし」
「正語とは、心のままに語ること」
「心に思ったことを、そのまま書きなさい」
こんな風に並べると、孔子の言葉の格調高さ、ありがたみが減ぜられるような気がしないでもないが、
真理は、数千年前にも、現代のネット上でも、小学校の教室でも語られているのだと思えば、心強い心持ちもする。
本来、真理というものは、、特別な時代、特別な人物によってしか語れないものではなく、いつの時代でも、どんな場所でも、いろんな人によって語られるものであって、それだからこそ真理なのかもしれない。
だとすれば、真理は語られるかどうか以上に、そこに真理があるかどうかに気付けるかどうかが重要だということになりそうである。 〈了〉
◇◆ 参考(20160216) ◆◇
*本音で語ろう
参考として、次のページを貼っておきたい。
参考として、次のページを貼っておきたい。
◆Heart Earth 正語とは心のままに語ること1~神理の民主主義
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-458.html
◆Heart Earth 正語とは心のままに語ること2~ホンネの世界
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-459.html
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-458.html
◆Heart Earth 正語とは心のままに語ること2~ホンネの世界
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-459.html
↑毎回、なんか私のアカウント変なのが出る・・けどソフィアです
ぷふ~、やっと書けたじょ
青い紫陽花さんを見ていたら、むくむくしたので私も書いてみました。
◆正語は心のままに語ること1
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-458.html
↑1ということは、2もある。気ままに書いていたら、すごい分量になってしまった。
おぉー、孔子さんの「純粋な情意表現」に、しびれたぜ
そうそう荒々しく見えても、そのままの気持ちには誠実さがある
ちょっと今は考えることできない。久しぶりに書き物したから、くるくるぱーになってる。
孔子さんのとか、いろいろ持ち帰って、じっくり味わってみまーす
あと、これも
≪本来、真理というものは、、特別な時代、特別な人物によってしか語れないものではなく、いつの時代でも、どこの場所でも、いろんな人によって語られているものであって、それだからこそ真理なのかもしれない。≫
じんわり、ほわほわ来ました~
tam
がしました