*ひさしぶり
最近は、霊に関する本はあまり読んでなかったけれども、タイトルにひかれて、ひさしぶりに読んでみた。
本書は、霊魂について、特定の宗教の立場から語るのではなく、神道、仏教、キリスト教などいろいろな立場から、Q&A方式で説明するという形式になっているので分かりやすく、かつ、おもしろい。また大震災にまつわる不思議な話も多く収録されているけれども、この部分はすごくせつない気持ちにさせられた。
次に、なるほどと思えた部分をメモっておきたい。


*礼儀
まず、霊に対しては、礼儀正しく接するようにするというのは、たしかにその通りだと思う。

最初にすべきことは、頭を下げて、幽霊に敬意をしめすことです。ていねいに接することが第一で、まかりまちがっても、攻撃的な態度をとったり、バカにするようなしぐさをしてはなりません。
(正木晃『いま知っておきたい霊魂のこと』NHK出版、2013年、p.79)

小学生の頃だったと思うが、幼馴染みと遊んでいる時、幼馴染みの姉貴がもってた怖い本を読んだ記憶がある。その本には、幽霊と会ったときの対処法の一つとして、「朝まで話し相手になる」というものがあった。これには幼馴染みといっしょに「そんなこと、できるわけない!」と半分は笑い、半分は怖がったものだった。
でも年を取ったせいか、霊に対する恐怖は薄れてきてる。死者に対しては、神に対するように、礼儀正しく振る舞うべきだとも思うようになった。そのせいか、霊に敬意をしめすべきだというのは、すごく納得できる。
ちなみに、長谷川光洋氏も同趣旨のことをより深く書いているように思える。

幽界にいる住人が、よく現界に姿をあらわすことがある。もちろん霊界の人間もそうであるが、これがすなわち幽霊である。しかし、そのためには非常な困難が伴い、並大ていの努力ではないので、これを面白がって見せものにしたり、研究の対象にしたりするのはまことに気の毒であり、失礼でもある。よほど断ちきれぬ念のために訴え出てくるのであるから、心から慰め悟してやるべきである。
(長谷川光洋『心霊能力入門 心霊世界のふしぎを解明する』新星出版社、昭和49年、p.184)

長谷川光洋氏は、この世(現界)、あの世(幽界、霊界、神界)と考えているようであり、幽界、霊界の住人が、この世に姿を現すことについて書いているのであるが、本当にその通りと思う。


*誰でも、死ねば、仏になる
仏教について興味を持っていろいろ調べていたころは、死者のことを「仏さん」というのはおかしいのではないかと思ったものだった。でも最近は、それでもいいのじゃないかと思うようになってきた。

日本では、人は死ねば、善人であろうと、悪人であろうと、いつかはみな仏になります。したがって、「死に馬に鞭打たず」といって、死んだ人々の悪口はいわないのが良識とされてきました。生前によくないことをした人でも、なにか逃れようのないしがらみのせいでそうなっただけで、根はそう悪くないとおもい込みたがります。いわば、性善説です。
(正木晃『いま知っておきたい霊魂のこと』NHK出版、2013年、p.99)

死んだ人は、みんな仏であり、悪いことはあまり言いたくないという感覚は、特定の宗教教義とは合致しないところもあるかもしれないけれども、たいがいの日本人の情緒には合致していると思うし、それでいいのだと思う。


*霊の声
霊がのりうつってしゃべると、声が変わるというのは、よく聞く話ではある。

菩提寺のお坊さんが祭壇の前に座って、さてこれからお経を唱えようとしていたやさきでした。つぎの間で、女性のわめく声がしました。
いってみると、故人の娘さんが神懸り状態になって、なにごとかを大声でしゃべっていました。親族の一人は「父親が彼女にのりうつってしゃべっている。声が父親にそっくりだと告げたそうです。
お坊さんは彼女の前で、不動明王の真言を唱え、数珠を彼女の頭に置いて、鎮まるように念じました。すると、彼女は平静な状態にもどり、そのあとはお通夜はつつがなく終了したといいます。
(同上、p.132)

これが本当であれば、声が変わるかどうかで、本当に霊がしゃべってるのか、霊がかかってる演技をしてるのか、判別できそうだ。


*悪霊と決めつけないこと
何の本で読んだか忘れてしまったけれども、「除霊」ではなく、「浄霊」であるべきだという話は読んだことある。強制的に取り除くのではなく、浄めて成仏してもらうのだと。
これは、その考え方と似た発想だと思う。

除霊というと、その霊(霊魂)が悪い存在だと決めつけることになります。これは、その霊にとっても、また除霊したいと思っている人にとっても、好ましいことではありません。
幽霊となってあらわれる霊にもいろいろあることは、すでに述べました。たとえ祟る霊であっても、祟るにはそれなりの理由があるはずです。それを一方的に、悪い霊だと決めつけるのは、どう考えても、よくありません。
(省略)
除霊のように、攻撃的に排除するのではなく、ていねいにお祀りすることで、霊そのものの性格を、よい方向へ転換させるのです。
(同上、pp.57-60)


*アニメ
上の考え方について、一つの例として、著者は、『千と千尋の神隠し』のカオナシについて書いている。

キリスト教をはじめ、一神教は善と悪を厳密に分けます。しかし、仏教は、善と悪を厳密には分けません。日本人の伝統的な考え方も、善と悪を厳密に分けてきませんでした。
(省略)
主人公の千尋は「カオナシ」を一方的に排除したりしません。むしろ、同情的です。「あの人、湯屋にいるからいけないの。あそこを出たほうがいいんだよ」といって、「カオナシ」といっしょに電車に乗って、旅に出ます。この旅は「六つ目の駅」をめざしていることから連想されるように、たぶん六道輪廻を象徴しています。
(省略)
「カオナシ」は銭婆の家にそのままのこります。それは、「カオナシ」が自分のいるべき場を見出したからです。いいかえると、安住の地を見出したからです。ようするに、千尋が一方的に排除しなかったからこそ、「カオナシ」もまた幸福な状態になれたのです。こういう対処の仕方には、学ぶべき価値が十分にあります。
(同上、p.63)

たしかに、千尋はカオナシに優しかったし、この場面は泣けた。カオナシは根っからの悪者というよりも、愛に飢えてただけなのかもしれない。そして、みなの強欲さに刺激されて、大暴れしてしまっただけなのかもしれない。
世の中には、根っからの悪党もいるかもしれない。でもできれば、根っからの悪党はいない、何か事情があって悪くなってしまってるだけで、その事情を取り除くことができれば、悪は消えると信じたいものである。光を灯せば闇は消えるみたいな。


*霊魂はあるのか
霊魂について、ブッダはどう考えていたのか、著者は次のように書いている。

もっとも成立が古い初期仏典(原始仏典)をひもといてみると、ブッダは、悟りを開かないかぎり、ヴィンニャーナとよばれるなにかがのこると考えていたようです。このヴィンニャーナは、かつては「霊魂のようなもの」と翻訳されていましたが、最近ははっきり「たましい」と翻訳するようになってきました。つまり、悟ってしまえば、死後になにものこりませんが、そうでなければ、やはり霊魂がのこると、ブッダは考えていた可能性が高いのです
(省略)
ブッダが説いた「無我説」も「非我説」も、なんであれ、これが自分だとか、これが自分のものだとして、把握できるものはなにもないという意味であって、霊魂がないという意味ではなかったことがわかってきました。
ようするに、「無我説」や「非我説」は、霊魂の否定ではなく、我執をなくせという教えだったのです。
(同上、pp.110-111)

この部分を読んで、疑問に思ったのだけれど、ブッダは霊魂に個性があると考えていたのだろうか。
無我説は、我執をなくせという心掛けを説いたにすぎないのか? それとも、「これが自分だとか、これが自分のものだとして、把握できるものはなにもない」ということまで踏み込んだものだったのか?
もし後者まで踏み込んでいるならば、「自分の霊魂」はないことになるのではないか。ただの霊魂(無個性な生命エネルギーみたいなもの?)はあったとしても、「自分の霊魂」「Aさんの霊魂」「Zさんの霊魂」のように、個性をそなえた霊魂はないことになるのではないだろうか。
でも、本書の171ページを読むと、ヴィンニャーナは認識体、意識体とも訳されてもいるらしい。認識体、意識体というならば、認識し、意識する私をそなえた存在という感じがしないでもない。とすると、霊魂には個性はあるのかな。
この辺りのことはどうなってるのだろう。学者の間でも翻訳がちがったり、議論があるようだけども、それだけに興味は尽きない。〈了〉