*形式
全体を通じて、老人と青年の対話という形で綴られている。もう少し詳しく言えば、「人間とは何か」というテーマについて、青年の問いに、老人が答えるというパターンが繰り返されている。
今回ひさしぶりに読み返してみたのだけど、気になった論点について書いてみる。


*人間即機械
まず老人は、人間は機械にすぎないと断じている。

人間即機械――人間もまた非人間的な機械にすぎん。
(マーク・トウェイン『人間とは何か』中野好夫訳、岩波書店、1991年、p.13)


心って奴、自身を左右する力すらもってないんだな。――ただ外部から動かされて作用くんだから。つまり、それが心ってものの構造法則、言葉をかえていえば、一切機械の法則なんだな。
(同上、p.15)

人間は、遺伝、出生地、交際関係などの外的な力によって動かされるばかりで、自発的に何かを考えたり、行ったりすることはできない、自動機械にすぎないということらしい。
これは理解できるように思う。
たとえば、信じたいと思うのに信じられなかったり、信じてはいけないと思いつつ、信じないではいられなかったりするのは珍しいことではない。
自分のお気に入りの物だったのに、友達に「いまいち」と指摘されて以降、さほどお気に入りではなくなったりすることもある。
心は自分で思うようには動かない、外部の力をうけて勝手に動いていくというのは、分からなくもない。


*動機
老人は、人間が何かをする時、その動機は、自分の欲求を満足させることが一番にあるという。

行為って行為は、すべて(本質的には)自己満足の衝動から生まれるものであって、それ以外のものはない
(同上、p.53)

人は他者のために尽くすことはある。自己犠牲的な行為さえすることもある。
でもその根っ子には、そうすることで満足を得たいという欲求があるのだということらしい。
こんなことを言ってしまっては身もふたもないんじゃないかと思えるが、この論法を崩すのは難しいようだ。
・彼は他者に親切にした……彼の第一目的は他者に親切にしたいという自己の欲求を満たすためだった
・彼は他者を許した……彼の第一目的は他者を許したい、許さねばならぬという自己の欲求を満足させるためだった
・彼は義務を果たした……彼の第一目的は義務を果たしたい、果たさねばならぬという自己の欲求を満足させるためだった
・彼は自己犠牲をはらった……彼の第一目的は自分を犠牲にしてでも他者に尽くしたいという自己の欲求を満足させるためだった
これは単純化して書いてるけど、動機にはいろいろあっても、そのなかで第一に来るのは、自己満足であることはまちがいなさそうだ。
こういう見方からすると、どうやら人間には本当の意味での利他行をすることは無理らしい。どんな利他行をしたところで、その根っ子に、利他行をしたいという自己の欲求を満たすという動機が潜んでいないということはなかろうから。


*人間と動物
老人は、人間と動物は、自分で自分を支配、コントロールすることはできず、外的な力によって自動的に動かされる機械である点については違いはないという。
これに対して、青年は人間には道徳的感覚があり、その点、動物よりはるかに優れているという。しかし老人は次のような見方を提示する。

人間には善悪の別がわかるってこと、そりゃたしかに他の動物たちよりも、知能の点じゃ上だってことを証明しているかもしれんな。だが、それでいて悪をなしうるっていうこの事実、これは逆に、それのできん動物たちよりも、道徳的には下だってことの証明なんじゃないかな。
(同上、p.143)

これに対しては、人は悪を犯すこともあるが、それを反省することもできると反論できるかもしれない。でも反省できるというわりには、戦争、虐殺などはいつまで経っても無くならないのだから仕方がない。
ド・ラ・メトリイの「人間機械論」だったかな。ライオンが人を噛み殺そうとしたとき、それが恩人であることに気がついて止めたというエピソードが紹介されてたと思う。この話が本当か嘘かは分からないが、そういうこともありそうではある。
鳥の中には、外敵が近付いてきた時、親鳥がおとりになって雛を守ろうとするものもいるという。またヌーだったか、鹿だったか忘れたが、草食動物の親たちが協力して、子を襲おうとしている肉食動物を追っ払った映像を見たこともある。母猿のなかには、子猿が病気で死んでしまっても、決して手放そうとせず、胸に抱き続けるものもいるという。
こういった事例と、人間たちの忘恩行為、児童虐待などとを比べると、はたして人間は動物よりも道徳的に優れているのかどうか、そう簡単には判断できないように思えてくる。少なくとも、人間はこうで、動物はこうだという風に、きっぱり分断することは無理そうだ。


*自由
老人は、自由意思について語る際に、ダビデを一例としてあげている。すなわち、ダビデはもちろん、生来の臆病者も、ゴリアテを倒すべきだと知っていただろうけれども、一方はそれをできて、一方はそれをできなかった。これは自由選択によるのではなく、両者の気質によるのだという。

選択を決めるのは気質なんだ――そして、この気質って奴は生れつき、生得のもの、つくられるもんじゃない。
(同上、p.161)

ダビデは持って生まれた気質、それから教育などの力によって、ゴリアテと戦う以外のことはできなかった。生来の臆病者も自らの気質、教育などの力によって危険を避けようとする以外のことはできなかった。よってどちらにしても、自分の考えによる自由選択なんかできなかったというのである。
人間は外的な力に動かされる自動機械であるという見方からすれば、当然の結論ではある。


*幸福
老人は、幸福と不幸についても、同様の論理を用いている。

もしある男がだよ、かりに不幸な気質に生れついているとすれば、これはもうなんとしても幸福にはなれん。逆にまた幸福な気質に生れついてればだな、これはなんとしても不幸にはならん。
(同上、p.169)

老人が挙げている一例では、バージェスとヘンリ・アダムズは同じような挫折を経験しているが、一方は常に楽観的で、もう一方は悲観的だったという。
たしかに幸、不幸を決定しているのは気質かもしれない。自分の身の回りをみても、難病を患ってはいても少しも落ち込むことなく、「くよくよしたって仕方ないからね、ははは」と明るく、幸福そうな人がいる。また傍から見ればけっこう恵まれてるように見えても、悲観的厭世的な人がいる。
そういえば、大分前のことだけど、重い障害を負った人の講演を聞いたことがある。その人は「はじめは死ぬことを考えたけども、落ち込んでばかりもいられないと気がついて、前向きに生きることにした」といっていた。
自分はこの考え方の転換がすごいと思ったので、質疑応答のときに、なぜそういうことができたかを質問してみたのだけれど、本人にもその理由は分からないみたいだった。ひょっとしてこれも一番の理由は、持って生まれた気質によるのかもしれない。


*責任
青年は、老人の話は社会によくない影響をもたらすのではないかと案じて、それを本にまとめたりはすべきでないと述べるが、老人はそんな心配を軽くあしらって次のように言う。

君は単なる道具なんだよ――物いうラッパさ。物いうラッパに、言ったことへの責任なんかない。
(同上、p.163)

人間は外的な力によって動かされる機械にすぎないとすれば、当然の結論ではある。外的な力が「言え」と命令すれば言わざるを得ず、「言うな」と命令すれば口をつぐむ以外に選択の余地はないなら、そこには責任は生まれないだろう。
また老人は次のようにも言う。

一言でいや、この人類って奴、実に天下太平なんだよ。なにがあろうと天下太平、永遠に天下太平なんだ。どんな信心だろうと、そんなことはかまわん。たとえ御祭神が虎だろうと、飼猫だろうと、そんなことはお構いない。とにかく幸福で、得意で、感謝好き、いわばどうしようもないほど天下太平なんだよ。
〈省略〉
いくらわしが彼等の前に、冷酷無惨な事実を並べたてたところで、果して彼等のお目出たさ加減を奪えるもんかどううか、怪しいもんだ。
(同上、pp.173-174)

人間は天下太平でお目出たいかどうかは別として、老人の思想は万人受けするものではなさそうではある。無関心、嫌悪、反発……などの反応が多そうだし、その影響を受ける人がいたとしても、そういう人は遅かれ早かれこのような人間観を発見するのだろうからさほど気にする必要はないかもしれない。


*希望
こうみてくると老人の話は、すごく厭世的虚無的ではあるが、きちんとした打開策も述べてあるから有り難い。

まず君の理想をより高く、さらにより高くするように努めることだな。そしてその行き着くところは、みずからを満足させると同時に、隣人たちや、ひろく社会にも善をなすといった行為、そうした行為の中に君自身まず最大の喜びを見出すという境地を志すことさ。
(同上、p.89)

これはつまり、人間は第一義的には自己の心の満足を求めるものだが、他の幸福を自分にとっての幸福とするように努めるならば、自も他も幸福になることができるということだろうか。利他的利己の精神というやつ。
これは釈尊の言葉に通ずるものがあるかもしれない。出典は忘れてしまったけれど、誰もが自分ほど愛おしいものは他にないと思っている、ゆえに他者を害してはならないという思想と似てる。もしかしたら釈尊も、人間は利己性から逃れられないことを承知していたのかもしれない。
人間機械論は、非人間的な思想だとするむきもあるけれど、人間機械論をおしすすめたら釈尊と同じ結論に到達するのだとしたら面白い。


*人間機械論と神の栄光
ついでにいうと、本書中、青年は人間は自発的に徳行ができる尊い存在だと主張するのに対して、老人は人間は自発的に何もできない自動機械にすぎないので、人間が徳行をしたとしたら、そうせざるを得ない仕組みを作った神のおかげだとしてる。
人間の徳行について、老人は神の栄光に帰しているのに対して、青年は神の栄光を盗み、人間の手柄だとしているわけである。信仰者の青年は神を冒とくし、人間機械論者の老人は神を賛美するという逆転現象がおきてるのだからおもしろい。
自分は、人間機械論は宗教を否定するものだと考えてきたものだけど、こういう見方を知ると、ものごとはなんでもそう簡単に白黒つけられるものではないんだなあと思えてくる。ものごとはちょっと視点を変えれば、まったくちがって見えてくることもあるらしい。この点、よくよく気をつけたい。


*まとめ
この本の人間観は、けっこう毒気があるし、生理的に受け付けない人もいるかもしれない。理想主義者にとっては噴飯物かもしれない。子供には(年齢的な意味だけでなく、精神的な意味も含めて)あまり読ませたくない気もする。
でもこういう見方もあるということは、知っていて損はないと思う。また利己、利他について考える、いいきっかけにもなりそうでもある。この意味ですごく意義のある本だし、名著だと思う。〈了〉


*コメント欄のコピペ
(yahoo!ブログからの移行時に、最新20コメより前のコメは移行されなかったので、その部分も含めてコピペ)



コメント(45)
顔アイコン自由さん おはようございます

読んでみました。

「どうやら人間には本当の意味での利他行をすることは無理らしい。どんな利他行をしたところで、その根っ子に、利他行をしたいという自己の欲求を満たすという動機が潜んでいないということはなかろうから。」

神でさえそうですから、といえば、聖書で証しされ、イエスさえそうだとすれば、神というほどではなく、人間でしょうということになりますが、まさに神であり、人であるから、利他でもあり、自己満足でもあるかなと思います。しかし、人のように聖、義、愛に背くことは決してないということだと信じます。
パスカルだったでしょうか。人の心には空洞がある、その空洞を満たすことができるのは神でしかないと言ったそうです。
聖書には人の心の空洞は神の住まいだと書かれています。
2019/1/29(火) 午前 9:06[ shalom ]返信する

顔アイコン新約・第一コリ
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。
2019/1/29(火) 午前 9:07[ shalom ]返信する

顔アイコン『人間機械論は宗教を否定するものだと考えてきたものだけど、こういう見方を知ると、ものごとはなんでもそう簡単に白黒つけられるものではないんだなあと思えてくる。ものごとはちょっと視点を変えれば、まったくちがって見えてくることもあるらしい。」

視点をどこに置くかが大切であるけど、確かな視点が人の心にはないということでしょうか。なぜなら人は神のような自存的な存在、有りてあるものではなく、有りて無き者だからでしょうか。 削除
2019/1/29(火) 午後 8:31[ shalom ]返信する

顔アイコンいま改めて考えてみると、人間機械論は宗教を否定するものというより、宗教を必要としないものなのかもしれません。

進化論の本とかを読んでいると、人間とは何かを語るのに、神様を持ち出す必要は全然ないんだなあと思えてくるので。
2019/1/30(水) 午前 7:04[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます

「進化論の本とかを読んでいると、人間とは何かを語るのに、神様を持ち出す必要は全然ないんだなあと思えてくる」

ダーウィンによる進化論から人間とはなにかを語ると当然そうですね。
聖書は天地万物、人も神の創造であると証ししていますが、人が神の創造の御業を見て書いているわけではありませんね。
一番人に近いと言われるチンパンジーさんに聞いたことはありませんが、NHKの日曜日の大河ドラマの前の自然界の動物たちの姿を伝える番組を見てもいつも感心、感動します。人間とは何かを問い続けずにはおられない人の心こそ、神によって神のかたちに造られたあかしだとも思われます。また人は自分を神のようなものとし、自分のかたちに似せて偶像を作ることも、神による創造のあかしだと思いますし、なによりも被造物と長い歴史における神の啓示によって証しされていることですね。その記録が聖書です。新約・ロマ書1章を読んでみてください。
人によって産みだされている宗教である偶像神の行き着くところがカルトで、その否定ではないでしょうか。
そのことには私も同感ですね。
2019/1/30(水) 午前 9:37[ shalom ]返信する

顔アイコン>人の心こそ、神によって神のかたちに造られたあかしだとも思われます。

そういう考え方もあるとは思いますけど、進化心理学とかの本を読むと、なぜ人は神を信じるのか、なぜ人は道徳心を持ってるのか、というようなことを神や宗教を持ち出すことなく説明してて面白いです。
ただこの手の本は、合う合わない、向き不向きはあると思うので万人向きではないかもしれないので、あまり人には進めないですけど…。
2019/1/30(水) 午後 7:25[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンところで、shalomさんは、創造論を支持してると思っていいんでしょうか。
もしそうであれば、自分は進化論寄りなので、この点に関しては水と油みたいですね。
2019/1/31(木) 午後 7:40[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん

水と油を混ぜると乳化現象を起こして、
水も油も使い物にならないようですね(笑)
人による仮説「創造論」は支持していませんが、神の創造は信じています。聖書の証しの真実性に基づく信仰です。
「進化論」は支持していませんが、環境適応による進化は信じています。
2019/2/1(金) 午前 10:04[ shalom ]返信する

顔アイコン「創造論」も「進化論」も仮説であって、人によって証明され確認されたことではないようですね。ほんとうはダーウィン自身も進化論を実証し、肯定も否定もしていないのではないでしょうか。
ですから、「創造論」「進化論」ともに根拠なき信仰?と言えるかもしれませんね。
2019/2/1(金) 午前 10:05[ shalom ]返信する

顔アイコン例えば馬とロバの交合によってラバができましたが、ラバとラバとの交合によっては不妊で、ラバを生むことさえできないのではありませんか。ラバは昔々ちょっと見たことがありましたが、今は全く見られないようですね。
種が異なるもの、例えば人と猿が交合しても種の違いのために人も、猿も生まれないのではありませんか。
臓器でさえ、抗原抗体反応(拒絶反応)によって臓器移植は出来ないのですが、今は拒絶反応を軽減したり、コントロールできるようになり、臓器移植が行われるようになりましたが、生まれる子供には移植以前の遺伝子による子供が生まれるのではないでしょうか。そういう人の研究、操作によって進歩、発展される医学ですが、その功罪はのちにならなければわかりませんね。
フランケンシュタインなどという人造人間の映画をずいぶん昔観たことがありますが怖かったことを覚えています。
映画好きな自由さんは観られましたか?
2019/2/1(金) 午前 10:05[ shalom ]返信する

顔アイコンフランケンシュタインの映画は、テレビでやってるのを見たことはあります。タイトルは忘れたし、中身もほとんど忘れたけど、男のフランケンシュタインと、女のフランケンシュタインが出てきてて、怖くもあり、悲しくもある話だったような覚えはあります。

未来の話をすれば、フランケンシュタインよりは、クローン人間とか、心を持ったロボットとかは、いずれ実現しそうな気はします。
2019/2/1(金) 午後 7:47[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン進化論については、自分の場合は、人間の胎児の成長を見るとリアルに感じます。胎児の成長は、人類の進化を十月十日で辿るというのは本当だなあと…。

あとは、地球上の生物の遺伝子を調べると、みんな親戚であって、共通の祖先から枝分かれしてきたことが分かるという話は、なるほどなあと思います。

恐竜が鳥になったという話も興味深いですね。はじめ聞いたときは、まさかとは思ったけど、よく見れば両者は似てるんですよね。それに恐竜が鳥になったというのは、なんとなくロマンがある(笑)。
2019/2/1(金) 午後 7:55[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンしばらく前に、カトリックが進化論を容認してるというニュースを知って記事を書いたなあと思って、過去記事をあさったらやっぱり書いてた。

・カトリックは進化論を認めている?
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40107463.html
2019/2/1(金) 午後 7:55[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん
40年ほどまえフランケンシュタインの伝説の地といわれるドイツの古城跡を訪ねたことがあり、映画を思い出しましたね。

カトリックが容認すれば正統で、容認しなければ異端だという伝統はまだ残っているのでしょうか。創造を進化の過程として考えることはあるでしょうね。突然変異ということもありますが、異なる種の間では交合し、新しい種ができるというのはどうでしょうね。わかりません。

胎児の成長に進化論ですか?成長のプロセスではないのかな?
2019/2/2(土) 午後 5:20[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん
クローン人間は中国ではすでにつくられているのではありませんか。クローン牛は見たことがあります。
2019/2/2(土) 午後 5:38[ shalom ]返信する

顔アイコン私も素人なので、進化論はこういうものだと断定的には言えないのだけども、異なる種が結婚して、新しい種が生れるという可能性は低そうに思えます。

ただ、一つの種が二つの群れに分かれて、お互いの群れが交わることのない環境に長い年月いれば、新しい二つの種ができそうには思えます。

大袈裟なたとえ話をすれば、地球人が、A星とB星に移住して、A星の人と、B星の人とが交わることなく、何万、何十万年も経ったら、A星の人たちと、B星の人たちは別方向に進化して姿形は変わり、両者の間に子供ができないくらいに別の種になるのではないかと…。
2019/2/2(土) 午後 7:09[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン胎児の成長については、人はいきなり人の形につくられたわけではないということがよく分かると思ってます。
2019/2/2(土) 午後 7:10[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん こんばんは
先に書きましたがオスのロバと雌の馬と交合して生まれたものがロバで、メスのロバとオスの馬と交合して生まれたものはケッティというそうです。ロバとケッティは交合しても染色体の数の違いのために不妊だそうです。やはり秩序があるのですね。
アメリカのヨセミテ国立公園の真っ暗な洞窟の水に明らかに退化して目の痕跡はあるが眼そのものはない魚がいるそうですね。環境によって進化もあれば退化もありなのでしょうね。
さて人間は進化しているのでしょうか?退化しているのでしょうか?私は退化しているのではないかと感じています。電気がなければたちまち生きていけないかもしれませんし、モノや知識は増えましたが、自ら作った、築き上げた環境によって人間の心のモノ化が進んで、バベルの塔の崩壊の再来となるように思われますが、進化しているのでしょうか。
2019/2/2(土) 午後 9:34[ shalom ]返信する

顔アイコン> 自由さん

胎児の胎内での成長よりも受胎そのものに神秘さを感じますね。
夫と妻の体内に精子も卵子も受精し、受胎する前には夫の精子も、妻の卵子も排卵される以前には存在していなかったのですから。命も心も働きはありますが、どんな鋭いメスをもってしても捉えられない、それそのものは見えないもののようですね。
2019/2/2(土) 午後 9:54[ shalom ]返信する

顔アイコン宗教、道徳などの視点からみたら、人類は進化しているのだろうかという疑問は分かるように思います。自分もそういう不安はあります。
ただ進化論の「進化」は、変化のことであって、優劣や善悪などとは別のようです。

>生物学における「進化」は純粋に「変化」を意味するものであって「進歩」を意味せず、価値判断について中立的である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
2019/2/3(日) 午前 9:40[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンちなみに、中野信子著『サイコパス』『不倫』なども、上のwikiの引用部分のような立ち位置のようで、サイコパスや不倫する人などを善悪や優劣で裁くのではなく、理解し、共生する方法を模索するという論調のようでした。
2019/2/3(日) 午前 9:48[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン>2019/2/2(土) 午後 9:54

この部分は、人はいつから人なのかという難しい問題に通じますね。
受精したとき?
母体から生まれ出たとき?
胎児の脳が一定程度できたとき?
この辺りは、宗教、法律、医学、道徳、良心…いろいろな立ち位置から大議論になる。
2019/2/3(日) 午前 9:50[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 自由さん おはようございます

「進化論の「進化」は、変化のことであって、優劣や善悪などとは別」

今、サンデーモーニングでAIによる自動運転の進化?、進歩?発展?でアメリカの仕事の47%がAI化され、人の職場が失われ、医師よりAI診断の方が正確などという報道されていました。ある女性は人がつくった便利なもので、人が困ってしまうことになるのではというコメントをしていました。
幼児虐待、虐め、DV、長時間労働と過労死、広がるハラスメント、危険なあおり運転、無差別殺人など心のモノ化、教育の荒廃、政治の順法精神の欠落・・・などますますひどくなるばかりです。進化の退化現象の心のモノ化の表れではないでしょうか。
2019/2/3(日) 午前 10:23[ shalom ]返信する

顔アイコン1.相対化
2.価値判断の中立化
3.善悪や優劣で裁かず理解し、共生する方法を模索

これらのことは対症療法を考えるにはきっと必要でしょう。
しかし、問題の本質を知ることにはあまり有効ではないと思います。やはり、「人が善悪を知る木の実を食べると死ぬ」という言葉の意味と「罪の支払う報酬は死である」という言葉を語られた方と向き合うことが必要だと私は考えています。
人によるグッド、ベターは生ける神のベストを常に排除、駆逐するのです。私たちは自由をどのように行使するかは自由です。しかし、その結果を選ぶ自由はありませんね。
2019/2/3(日) 午前 10:25[ shalom ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん

「人はいつから人なのかという難しい問題に通じますね。
受精したとき?
母体から生まれ出たとき?
胎児の脳が一定程度できたとき?」

1.法律的には出生、誕生によって人として認知されるのでしょうね。
2.胎児に対しては母体である母親の人権、法律の範囲内で保護されるのではないでしょうか。倫理的、道徳的、道義的には、胎児を人として認知されても、独立している人として権利、義務という法律的な保護は認められることはないのではないでしょうか。
ひとりの人間としての道義的判断と社会的、法律的判断には違いがあるのでしょうからよくわかりません。
2019/2/3(日) 午前 10:48[ shalom ]返信する

顔アイコンその点については、例外もあるみたいです。
説明を読むと、たしかに筋は通ってるように思える。

>胎児の損害賠償請求権
https://avance-media.com/jiko/5355250/
2019/2/3(日) 午前 11:22[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコンテレビを見てると、いやなニュースが多くて、気が滅入りますね。
でも自分の周囲を見回してみると、いい人は多いし、微笑ましい出来事もちょいちょいある。
世の中の動きは知っておかなければならないだろうけど、やっぱ情報の取捨選択も大事だなとは思います。
2019/2/3(日) 午前 11:24[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 1.相対化
> 2.価値判断の中立化
> 3.善悪や優劣で裁かず理解し、共生する方法を模索

1と3はいいと思うけど、2はちょっと違うかなとは思います。
自分は、公平中立とかはあまり信じてないし、人にはそんなことは無理だろうと思ってるので…。だから、判断が公平中立とはいえなくとも、その価値判断の立ち位置がある程度明らかになってるなら、それでいいという感じです。
2019/2/3(日) 午前 11:52[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん

進化論は変化論であるべきですね。
進化は良いことだというイメージがありますが、退化も含めた変化論なら、同感ですね。

「テレビを見てると、いやなニュースが多くて、気が滅入りますね。
でも自分の周囲を見回してみると、いい人は多いし、微笑ましい出来事もちょいちょいある。
世の中の動きは知っておかなければならないだろうけど、やっぱ情報の取捨選択も大事だなとは思います。」

ひとりひとりと直接顔を合わせて話すと、誰もが良い人で、特に悪意のある人はあまりいないのですが、利害や政治が絡み、公という名の圧力によって個人ひとりひとりが抑圧されてしまうと別人のような顔に変わりやすいということはよくありますね。
選挙などその典型だと痛感します。

新聞やテレビ、スマホなどで伝えられるニュースの大部分があまりよくないニュースが多いようですね。Good Newsがもっとたくさん取り上げられる必要がありますね。からだには良い食事、心には良い情報が必要だとおもいます。
2019/2/3(日) 午後 2:45[ shalom ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん
(損害賠償請求権に関する胎児の権利能力)
第七百二十一条 胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなす。

つまり、お腹の中の子どもは、損害賠償をする時には、親族権が侵害されたと評価されることができます。よって、お腹の中の子どもは損害賠償を請求することができ、子どもは、産まれたのちに、母を法定代理人として、加害者に対して損害賠償を請求することができます(死産であった場合にまで、賠償を認めるものではありません)。

良い法律ですね。
子どもは生まれたのち、母親を法定代理人として加害者に損害賠償を請求できますというのは母親の養育者としての権利擁護でもあるようですね。
事故を原因とした死産の場合はどうなのでしょうね。
2019/2/3(日) 午後 3:00[ shalom ]返信する

顔アイコンその場合はどうなんでしょうね。かっこ書きで、死産の場合は賠償請求は認めないらしいことを書いてるので、そうなりそうではあります。
2019/2/3(日) 午後 5:07[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン良い情報いいですね。
大事件のニュースも大事だろうけど、身の回りのほのぼのニュースは癒されますからね。
ちなみに最近、よく聞いてるネットラジオは、ゆるい話が多くておもしろいです。

・ネットラジオ「ユウのビーサイ!」
http://www.be-side.jp/yuu/
2019/2/3(日) 午後 5:28[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん

ネットラジオ聞いたことがありません。
最近はあまり聞いていませんが、NHKラジオの早朝4時過ぎ“明日への言葉、希望?”は早く目が覚めた時などよく聞いていましたが、いいですね。
2019/2/3(日) 午後 8:52[ shalom ]返信する

顔アイコン自分には早朝四時はさすがにつらいものがありますね。
でもラジオをよく聞いてる人の話を聞くと、テレビよりずっと突っ込んだ意見が聞けたりするようですね。

ところで、名前のことですけど、「楽山 (自由)」ではなくて、「楽山」でいいですよ。「(自由)」というのは誰だか分かるように、経過措置として残してるだけなので。
もともと、幸福の科学のネット界隈では、「楽山」と呼ばれてたし、「自由」より、そっちの方が分かりやすそうなので。
2019/2/3(日) 午後 9:11[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん おはようございます

そうですね。ラジオは寝て聴くこともできますが、いろんなことをしながら聞くこともできますし、考えながら聞くのがいいですね。本もやはり考えながら読むのでいいですね。時には同じ行を読んでいるのに気が付かないこともありますが(苦笑)
大宅壮一さんでしたか、テレビが観られるようになって、これで人間がアホか、馬鹿になるとか言ったそうですが、そういうこともありかなと思います。昔は何かを知る、学ぶには汗をかき、涙を流し、からだで体験し、本を読んだり、辞書を開いたり、自由であるためには血さえ流さなければならなかったのですから、ぽかんと観ていれば、何でも分かる、わかっているつもりになってしまったり、今は猫も杓子もスマホ、スマホ!スマホとは賢い電話という意味ですが、持ち物は進化して、人がアホに退化したら、ギャグでは済みませんね。
2019/2/4(月) 午前 9:19[ shalom ]返信する

顔アイコンそれでも定年になったりするとパソコンがなくては接点が少なくなることもありますから、あまり文句ばっかりは言えませんね。
パソコンばかりでは生けるミイラになりかねませんが。

名前は楽山(自由)さんでもいいのでしょうか。
私には楽山さんという名前は別の人みたいですね。
人にもものにも名前をつけて呼ばないと不便だけではなく、関係も成り立ちません。名前って不思議ですね。
年を取ると、人の名前がなかなか思い出せず、ほら、あの人、あの人だよなんて言うことが多くなったようです。
関係が遠くなったせいでしょうか。
2019/2/4(月) 午後 0:53[ shalom ]返信する

顔アイコン別人みたいですか。
それじゃ、いっそ、「jiyuu」とか、「ジユウ」にしようかなあ。
2019/2/4(月) 午後 7:21[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山さん こんばんは

私が自由さんという呼び名で出会いましたし、カルトを体験された人ということもあり、呼びやすいということでしょうね。
楽山とは初めて聞く名前ですが、由来があるのですか?
これから楽山さんでいきましょう。
楽山さん今後ともよろしくお願いします!
2019/2/4(月) 午後 9:22[ shalom ]返信する

顔アイコン仁者は山を楽しむというやつです。完全に名前負けしてますけど…。

>知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1096209945
2019/2/4(月) 午後 9:57[ 楽山 (自由) ]返信する

> 楽山 (自由)さん
らくざん よりよし さんと読むんじゃないの?
愛称が じゆう じゃない?
2019/2/4(月) 午後 9:58”=”返信する

顔アイコンええっと、自分的にはそこは、らくざん かっこ じゆう のつもりではあります。
2019/2/5(火) 午前 7:13[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん

孔子の言葉でしたか。
因みに楽水は楽粋、楽酔でもいいでしょうか。
楽山、楽水、どちらも雅号にしてもいいですね。
2019/2/5(火) 午前 10:36[ shalom ]返信する

顔アイコンそこはやはり、知者より仁者と思うので、水より山かなと。

ちなみに自分の場合、知者というと、なぜか智慧第一のシャーリプトラより、こちらを思い出してしまいます。



>周利槃特(しゅり・はんどく)の悟り
http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/syurihanndoku.htm
>周利槃特
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9
2019/2/5(火) 午後 7:36[ 楽山 (自由) ]返信する

顔アイコン> 楽山 (自由)さん
「>周利槃特(しゅり・はんどく)の悟り
http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/syurihanndoku.htm」

読みました。
ふと次のような思いがこみ上げてきました。
イエスさまはご自分の死を目前にして、弟子たちの足を洗われました。それはもうすぐ十字架につけられ流されるご自分の血、命によって弟子たちの足だけではなく、私たちすべての人の罪、穢れを洗うためであることを表わすためでした。
神の御子の汚れなき血の代価なしには贖われることのない私たちの罪、穢れを洗い流すイエスの死は罪穢れによって滅びるしかない人の手によって裁かれ、十字架につけられたのです。
不思議な、人の思いを超えた生ける神の愛のなせる業であるというのです。下へ上る道、それが十字架につけられたイエスさまが歩まれた道であり、生ける神の心であるというのです。
罪の自覚の深まる時、神の恵みがいやませりという聖書の言葉も思い出されました。
shalom!
2019/2/5(火) 午後 9:38[ shalom ]返信する

顔アイコンそれについては、現代でも、洗足式というものがあると知った時は驚きました。

・洗足式
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38026105.html
2019/2/6(水) 午後 8:19[ 楽山 (自由) ]返信する