*預言者の見分け方
聖書を読んでいたら、神の言葉かどうかの見分け方が書いてあった。
聖書を読んでいたら、神の言葉かどうかの見分け方が書いてあった。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。(申命記18.22)
これはシンプルで分かりやすい見分け方だと思う。
語られた通りになるかどうかで判断すればよいというなら、誰でも容易に判断できそうだ。
*嘘はつかない、間違わない
これに関連して、次の記述もある。
神は人ではないから、偽ることはない。
人の子ではないから、悔いることはない。
言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。(民数記23.19)
主は口にされたことは必ず実現させる方だという。
だから預言者が語ったことが、主の言葉であるかどうかは、それが実現されるかどうかで判断できるということになるわけだ。
自分は神学者ではないので、断定的にはいえないけれども、少なくともこの箇所を読んだ限りでは上の解釈になりそうではある。
*カルト対策
実際問題としては、預言者を自称する者が、預言めいたことを言ったとしても、それが常に実現する可能性はほとんどないだろう。
そうであれば、上に述べた基準で判断しているかぎりは、偽預言者(カルト宗教の教祖など)に騙される危険性は減らせそうだ。
この点において、聖書の判断基準は、カルト対策として有効であると思う。
ちなみに、預言者を判断する際に、その預言が成就するかどうかで見分けるというのは、一般にもよく行われていることではある。たとえば、「預言が外れたから偽物だ」「予告通りにならないじゃないか。嘘つくな」というのはよく聞く台詞だ。
こういうところから想像すると、偽預言者の問題とその対策は、聖書が書かれた時代からずっと変わってないのかなあという気がしないでもない。〈了〉
そうであれば、上に述べた基準で判断しているかぎりは、偽預言者(カルト宗教の教祖など)に騙される危険性は減らせそうだ。
この点において、聖書の判断基準は、カルト対策として有効であると思う。
ちなみに、預言者を判断する際に、その預言が成就するかどうかで見分けるというのは、一般にもよく行われていることではある。たとえば、「預言が外れたから偽物だ」「予告通りにならないじゃないか。嘘つくな」というのはよく聞く台詞だ。
こういうところから想像すると、偽預言者の問題とその対策は、聖書が書かれた時代からずっと変わってないのかなあという気がしないでもない。〈了〉