以前は、無神論には全然興味はなかった。でも最近はけっこう興味がある。
なぜだろうと考えてみるに、はじめのきっかけはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだことだったように思う。その中でイワンという人物が神を強く批判している。大審問官の前、自分の心情を弟に打ち明けるくだりである。
その要旨は大体次のようなものだったと思う。この世界では悲惨な出来事が繰り返されている。たとえば地主が、小作人の子供を素っ裸にして野原に放り出し、猟犬に噛み殺させるという事件があった。しかもこれは子供の母親の目の前で行われたのだ。これはほんの一例であって、似たようなことは無数にある。こんなことにどんな意味があるというのか。これが神の計画なのか。このような犠牲の上でなければ神の計画は成就しないのか。人々は救済はされないのか。わたしには、そんなことは到底認められない。いたいけな子供たちを犠牲にしてまで、天国に行きたいとは思わない。天国への切符はつつしんでお返しする。
自分にはこの意見は一理あるように思われた。神は全知全能であり、完全であるとするならば、この世界のすべては、神の意思に基づいていることになる。神の望まないことは決して実現することはない。もし神が「子供を犠牲にすることは望まない」とわずかでも思ってくれさえすれば、子供が悲惨な目に遭うことはなくなるのである。しかし現実には、可哀想な子供はあとを絶たない。神はそれを認め、許しているということである。神は残酷だ。そんな神から天国に招待されたところで絶対に行きたくない。それは御免こうむる。……これは当然の結論であるように思う。
自分はもともとは、無神論には虚無、冷酷といったイメージを持っていた。神を否定するのは、心が荒んでいるからではないかと思っていた。心が荒み、人間らしい情感を失っているから信仰を持てず、神を否定するのだろうと思い込んでいた。
でもイワンの告白を読むとどうもそういうわけではないらしい。むしろ心が優しいために神を否定しているようでさえある。無神論の中には優しさ、愛がある。自分が無神論に興味を持ったきっかけは、このあたりにあるらしい。〈了〉