棄教と聞くと、『サイン』という映画を思い出す。あらすじは、こんな感じである。主人公の牧師(メル・ギブソン)は、妻の悲惨な事故死をきっかけにして信仰を失い、荒んだ日々をすごしている。そんな折に宇宙人による地球侵略があり、主人公は宇宙人との戦いよって信仰を取り戻す……。

こう書くと、かなりトンデモな話に見えるのだけど、全体を通してみれば、妻の死も、棄教も、すべてに意味があり、神の計画だったということをほのめかすつくりになっている。神はすべてを予見した上で、主人公にそのような運命を辿らせたのだと。

自分は単純なので、この映画をみることで、棄教にしろ、無神論への傾倒にしろ、神の計画によってそういう方向に誘導されていることもあるのかもしれないなあと思うようになったのだった。そうであれば、乾いた砂が指の間からこぼれるように、信仰が心に留まってくれないのであれば、「信じなければならぬ」と意固地になるよりも、それは神のはからいであるとして素直に受け入れることが必要なのかなあと。

なんだか変な結論ではあるけれども、神は全能で、完全であり、一切を支配しているのであって、神の意に沿わないことはどんなに些細なことであっても実現することはないとするならば、上のような結論にならざるを得ないように思う。

ちなみに、聖書には次の言葉がある。

神はモーセに、
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。従って、これは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
(ローマ9:15-16)

神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
(ローマ9:18)

神が人の心を頑なにされるときは、その人が頑なだから、さらに頑なにして罰しているのだという見方もあるようだけども、「人の意思や努力ではなく、神の憐れみによる」というのであれば、神は、その人が元から頑なであるか、そうでないかは関係なしに、頑なにしたい者は頑なにし、そうでない者はそうでないようにされそうではある。

この辺りは判然としないけれども、自分としてはやはり、全能ですべてを統べる神が存在するのであれば、すべては神の御心によるのであって、自分の信仰に何が起ころうとも、それはそのまま受け入れるしかないのかなあと思えるのである。〈了〉