神は愛であるという。けれども、この世に悲劇は多く、嘆き悲しむ人たちは放置されているようだ。なぜだろう。

遠藤周作は、愛は現実的には無力なものとしていたように思う。とすれば、神は愛ではあるけれど、無力なのだろうか。だから人を救えないのだろうか。うーん、どうもそうとは思えない。

イエスは愛の人であったが無力だったという見方は感動的ではある。でも天上の神が無力だというのは、なんだか変な感じがする。そもそもシンプルに考えれば、無力な存在は神とは言わないだろう。

ひょっとしたら、神は無力ではないけれども、その力には限界があり、この世の悲劇を止めたくても止められないのだろうか。

でもこれだと、神というより、人間のようだ。人間は他者の幸せを思う気持ちはあっても、力及ばず、悲劇を止めることはできないでいる。神もそんな風であるならば、それは神というより、人間そのものだ。

では、神は愛であり、かつ全能であるけれども、あえて悲劇は止めず、嘆き悲しむ人々をすぐには救わないでいるのだろうか。

これは抽象的な言葉を聞いているだけであれば、もっともらしく聞こえる。なるほどそうかと思えなくもない。でも具体的な事例を思い浮かべると、素直に頷くことはできなくなる。

たとえば、親から育児放棄されて餓死した幼児を司法解剖したら、胃の中から紙屑が見つかった、どうやら空腹のあまり紙屑を食べていたらしいなどというニュースを知ると、もうたまらない。「神はなぜこの子を救わなかったんだ。天からマナを降らすなどの奇蹟を起こしてあげたらよかったじゃないか。なぜ子供が餓死するにまかせたんだ」と腹が立ってくる。

こういう例は他にも無数にあると思うけれど、それでもあくまで神は愛であるとするならば、神の愛は、人間が考える愛とは、よほど違っていそうである。信仰者的な表現をするならば、こういうことになるだろうか。「神の愛は、人知を超えたものである。人には理解できぬほど、深く、広いのである。我々はその愛を信じることが大切である」

でも別の見方をすれば、こうも言えそうである。「神の愛は、人間的な情緒では受け入れ難いものであるとしたら、それは果たして本当に愛と呼べるのだろうか。悲劇を止められるのに止めず、人々が嘆き悲しむままにしておくというのは、健全な愛というよりは、かなり倒錯したものではないか」

うーん。神、愛、全能、悲劇……について矛盾なく説明するのはやっぱり難しい。でも、この問題の行き着くところは、結局、次の三つのうちのどれかになりそうではある。

まず一つは、ただ信じることである。「神は愛であり、全能である。この世に悲劇はなくならないし、矛盾は少なくない。けれども、神は愛であり、全能であるのだ」と。

二つ目は、思い切って、ちゃぶ台を引っくり返すように、神は存在しないとすることである。そうすればこの問題は、一息にけりがつくだろう。

最後の一つは、忘れてしまって考えないこと。この問題への興味をなくすことだ。自分はもともとは無宗教の家で生まれ、育ったので、あれこれ考えたところで、結局、最後は第三の選択肢に落ち着きそうではある。

でもそれが分かってても、神様のことを考えることは止められないのがつらいところだ。ひょっとしたらこれも一種の依存症かもしれない。もしそうであるならば、人生という限られた時間を無駄にしないうちに、できるだけ早いうちに治療したいものである。〈了〉