嘘はいけないが、方便(善意の嘘?)は許されるという考え方がある。
でも、相手を一定の方向に誘導するために、事実でないことを言うという点については、悪意の嘘も、善意の嘘(方便)も同じだろう。
とすれば、嘘は、善意であれ、悪意であれ、相手の自由選択の機会を奪っているという点については変わりなく、よくないことのように思える。
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方便について考えるとき、一番分かりやすいのは、がん告知かもしれない。
以前は、がん患者には、本人の気持ちを慮って、本当の病名は教えず、方便を用いることが多かったという。
でも近頃は、告知が基本になっているようだ。本人に、本当の病名を告げて、その治療法などの情報を提供した上で、今後どうするかを決断させるという。
これは大雑把に言えば、患者本人のことは患者本人が決める、患者の選択を尊重するということなのだと思う。
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結局、方便というものは、個人という考え方が希薄だった時代の発想なのかもしれない。たとえば方便の根底にあるのは、次のような考え方だろう。
「わたしが、あなたを正しい道に導いてあげよう」
「わたしは、あなたに必要なことは何であるかを知っている」
「あなたが進むべき方向は、わたしが決めてあげる」
「わたしは、あなたに必要なことは何であるかを知っている」
「あなたが進むべき方向は、わたしが決めてあげる」
はっきりいって、こういう発想は、相手も自分と同じものを求めているはずだという思い込みによるものだ。さらには相手は自分よりも判断力が低いという見下しもある。つまり方便の裏には、個人の尊厳は認めず、自分は物事をよく知っているという傲慢さが潜んでいる。
とはいえ物事は何にでも例外はあるものだ。方便が必要なときもあるかもしれない。たとえば意識が混濁していたり、精神不安定で、正常な判断能力を失っている相手に対しては、方便は必要だろう。
でも基本的には、対等の人間関係にある相手に対して方便を乱用するのは、個人の尊厳を傷つけることだろうし、よくないことであるのは確かだ。
世の中には、方便だということで嘘を正当化するむきもあるけれども、こういうことは、やられたくもないし、やりたくもないなあと思う。〈了〉