19世紀、交霊会がさかんに開かれていた頃、霊媒のいかさまを暴いた者が、心霊主義者から批判、抗議されるということがあったという。「まさかそんなバカなことがあるもんか」とも思えるのだが、どうやら本当のことらしい。

冷静に考えるならば、こういう場合、心霊主義者は、いかさまを暴いた者に感謝すべきだったのではないかと思う。「いかさまを暴いてくれてありがとう。おかげで、騙されずに済みました。心霊主義全体の信用から考えても、いかさまを排除するのはよいことです」という風に。

でも現実には、知性も良識も備えているはずの有名な心霊主義者でさえ、いかさまを暴露したことについて感情的になったというのだから驚きだ。人間とは本当にややこしい生物だ。

   

こういう事例を知ると、信仰についていろいろ考えさせられる。

まず一つは、信仰はプライドと密接に関わっているらしいということだ。信仰の根っ子には、自分は真贋を見抜く能力があるという自惚れが潜んでいる場合もあるのだろう。だから霊媒のいかさまを暴く行為は、霊媒は本物だと判断した自分の判断力に対する挑戦だと感じて、腹を立てるのかもしれない。

もう一つは、信仰は冷静に判断したうえでのものではなく、「これは本物だ!」という直感や感情に従っているだけの場合も少なくないのではないかということだ。単に信じたいものを信じているだけだから、それは間違いであることを示す証拠が出て来ても、そんなことは無視して、不合理なれど我信ずとばかりに信仰を続けるのだろう。

   

信仰には尊い面があるのは確かではある。隣人の幸福を祈る姿は美しいし、死者を悼む姿は涙を誘う。どのような苦難困難にも屈することなく、立ち向かってゆく信仰者からは気高さが感じられる。自分も見習いたいと思う。

でも信仰には、鰯の頭も信心からというように、愚かな面もなくもない。独善、プライド、選民思想、差別というような、どろどろした面もないとはいえない。信仰ゆえに、独善的で、無反省で、攻撃的になってしまう人もいるようだ。

こういう点をみると、信仰はすばらしいという風に、信仰のすべてを手放しに讃美するばかりではなく、信仰の中身をよくよく考えてみる必要があるのかなあと思う。この意味で、「信仰を持て!」「信仰を手放すな!」というばかりで、その信仰の中身をあまり問わなかったり、批判者に対して激怒し、攻撃的になる宗教は、カルトの可能性は高く、要注意である。〈了〉