先日、パスカルの賭けについて、ひさしぶりに調べてみた。個人的な感覚からすると、これはどうも好きになれない。なんだか違和感がある。
なぜだろうと考えてみると、信仰に損得勘定を持ち込んでいるからかもしれない。
神を信じないよりも、信じた方が利益が見込めるから、信じた方がいいというのは、あまりに打算的にすぎる。自分の宗教感覚では、こういう信仰の仕方は、どうも受け入れ難い。こんなものは信仰とは言えないのではないか。
神を信じないよりも、信じた方が利益が見込めるから、信じた方がいいというのは、あまりに打算的にすぎる。自分の宗教感覚では、こういう信仰の仕方は、どうも受け入れ難い。こんなものは信仰とは言えないのではないか。
とはいえ、ウィキペディアを読むと、このことはパスカル自身も承知していた気配はある。
しかしパスカルは、この賭けを受け入れること自体が十分な救済だとはしていない。賭けが書かれている節の中で、パスカルは自身の理解について、それが信仰の推進力にはなるが信仰そのものではないと説明している。
賭けは、信仰そのものではないというのであれば、自分にも理解できるように思う。
でも賭けが、信仰の推進力……信仰に導くための方便?……になりうるという見方は疑問だ。損得勘定によって信仰を選んだとして、それで本当の信仰に到達することはできるのだろうか。
進む方向が間違っていた場合は、先に進めば進むほど本来の道から離れて行くものだともいう。とすれば、損得勘定からはじめた信仰は、先へ行くほど本当の信仰から遠退いて行くということもあるのではないか。
どうなのだろう? こう考えると、賭けからはじめる信仰はよくない気がする。
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ウィキペディアの「パスカルの賭け」を読むと、パスカルの考えについては、上述のように違和感があったが、ドーキンスの言葉(最後の一文)にはけっこう共感できた。
ドーキンスは「神は慈悲深くない、あるいは信仰に報いないという可能性もある。慈悲深い神は定義上、罰したり報いたりする判断基準として各人の信仰を優先し、各人の行動(優しさ、寛大さ、謙譲、正直さ)は二の次である。しかし、神は信仰とは無関係に各人の正直さに報いるかもしれない[20]」と主張した。
神は、信仰の有無よりも、ただその人が正直に生きたかどうか、善く生きたかどうかを気にかけているのではないか。
自分もこのような神のイメージを持っているので、ドーキンスの言葉にはまずまず共感できる。
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パスカルの賭けについて、下の批判もなかなかおもしろい。
この賭けは、人が意識的に選択できることを前提としている。しかし信念を意識的に選択することはできないと主張する批判者らは、パスカルの賭けは神への信仰を意識的に装ったものに過ぎないという。さらに「全能の神がいるなら、そんなごまかしは通用しないだろう」と主張する
信じたくても信じられなかったり、信じたくなくても信じないではいられなかったりという経験があるせいか、人は意識的に信仰を選択できないのではないかという見方は、自分にも納得できる。
また神は、本当の信仰と、損得勘定による賭けとは簡単に見分けるにちがいない。
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自分には、パスカルの賭けについて、神学的にどうか、論理的にどうとか言う能力はないので、その手の意見をいうつもりはない。でも自分の宗教感覚は、パスカルの賭けよりも、その批判の方に、より共感するようである。
パスカルは有名な偉人であるが、自分はただの平凡人である。いささか権威主義的な思考ではあるけれど、自分なんかよりも、パスカルの言うことの方が正しそうではある。
でもそうはいっても、共感できないことに、共感している振りをしたってしょうがない。とりあえずは自分に正直でいるしかないのだろうなあと思う。
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と、ここまで書いてから思い出したのだが、自分も、あの世を信じるかどうかで損得勘定をしたことがあったのだった。
「あの世がないなら問題なし。自分は損しない。
あの世(天国)があっても問題なし。自分は損しない。
あの世(地獄)があったら問題あり。もし地獄に墜ちたら大変だ。
それなら、とりあえず地獄に墜ちない生き方をしておけば、死後の心配はしなくてもよさそうだ」
あの世(天国)があっても問題なし。自分は損しない。
あの世(地獄)があったら問題あり。もし地獄に墜ちたら大変だ。
それなら、とりあえず地獄に墜ちない生き方をしておけば、死後の心配はしなくてもよさそうだ」
これは、かれこれ二十年くらい前、まだ宗教を信じていた頃に考えたことではあるけれど、なんだかんだいって、自分もかなり打算的な人間のようだ。情けない。とほほ。〈了〉